2009年01月08日
人間と人間の関係が人間と自然を収奪する
「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモ その16
マルクスは、専制国家が農業共同体の発展から自然に生じたかのように考えていた。ウェーバーは、古代エジプトから絶対主義王権、資本制大企業にいたるまでの官僚制の諸形態を考察したが、それがいかに歴史的に発生したかを問うていない。ウィットフォーゲルは、この両者の認識をもとにして、「東洋的専制国家」を「水力社会」として考察した。「水力社会」とは、いわば人間と自然の関係(生産力)から社会を見る見方であり、そこでは、人間と人間の関係が見落とされている。彼もまた、国家がどのようにして出現するかという認識を欠いている。
ここで、人間と人間の関係が人間と自然との関係を規定する様を、3つの交換様式に沿ってみてみよう。
交換様式A(互酬制) 人間と自然との関係が相互的・循環的
交換様式B(略取=再分配) 人間と自然に対する関係が収奪的
交換様式C(商品交換) さらに収奪的な環境危機が人間と人間の関係として起こる
人間と人間の関係、つまり、交換様式Bと交換様式Cがそれぞれ国家や資本として自立化し、人間と自然の関係を規定していく。これが現代の様相である。
蛇足であるが、引用箇所は、私が「いまーここで」この「メモ」を書いていることのまさに動機付けとしてある。しつこいが、再度引用する。
いわゆる沖縄(基地)問題に対して、様々な運動の実践がなされる。座り込み、署名、申し入れ、裁判、シュプレヒコール、選挙、集会などなど。これらはみな、その時々で必要な運動である。民衆の知恵である。
一方、沖縄(基地)問題もまた、資本と国家の問題に帰結する、というより資本と国家の問題そのものである、というのが私の認識である。
そこで重要なのが引用の言葉である。生身の民衆の、文字通り生死をかけた運動では、その抵抗の相手が「日本政府」であり「アメリカ政府」であり、「日本人」」であり「アメリカ軍」である。あるいは、その時々の権力者の名前や、対峙する官僚機構の固有名であったりする。だが、その問題の根本――資本と国家――を問わなければ、それがいかにして生じるかを認識しないならば、それらの相手をいくら批判しても、それを解消することも回避することもできない。批判するな、というのではない。批判せざるを得ないのだ。しかし、そうすると同時に、その問題が「なぜいかにして生じるのか認識」することが、遠くて近い道なのだ、と私は思う。
マルクスは、専制国家が農業共同体の発展から自然に生じたかのように考えていた。ウェーバーは、古代エジプトから絶対主義王権、資本制大企業にいたるまでの官僚制の諸形態を考察したが、それがいかに歴史的に発生したかを問うていない。ウィットフォーゲルは、この両者の認識をもとにして、「東洋的専制国家」を「水力社会」として考察した。「水力社会」とは、いわば人間と自然の関係(生産力)から社会を見る見方であり、そこでは、人間と人間の関係が見落とされている。彼もまた、国家がどのようにして出現するかという認識を欠いている。
つまり、国家がどのように出現するのかを問わない。だが、あることがなぜいかにして生じるのかを認識しないならば、いくら批判しても、それを解消することも回避することもできないのである。
人間と自然の関係が人間と人間の関係を規定することは確かであるが、逆に、人間と人間の関係が、いかに人間と自然の関係を規定しているかを見なければならない。この場合、私の考えでは、人間と人間の関係は、「生産」という観点ではなく、「交換」という観点から見出されるべきである。そして、そのかぎりで、国家や資本の独自の位相が見えてくるのだ。
ここで、人間と人間の関係が人間と自然との関係を規定する様を、3つの交換様式に沿ってみてみよう。
交換様式A(互酬制) 人間と自然との関係が相互的・循環的
交換様式B(略取=再分配) 人間と自然に対する関係が収奪的
交換様式C(商品交換) さらに収奪的な環境危機が人間と人間の関係として起こる
人間と人間の関係、つまり、交換様式Bと交換様式Cがそれぞれ国家や資本として自立化し、人間と自然の関係を規定していく。これが現代の様相である。
蛇足であるが、引用箇所は、私が「いまーここで」この「メモ」を書いていることのまさに動機付けとしてある。しつこいが、再度引用する。
つまり、国家がどのように出現するのかを問わない。だが、あることがなぜいかにして生じるのかを認識しないならば、いくら批判しても、それを解消することも回避することもできないのである。
いわゆる沖縄(基地)問題に対して、様々な運動の実践がなされる。座り込み、署名、申し入れ、裁判、シュプレヒコール、選挙、集会などなど。これらはみな、その時々で必要な運動である。民衆の知恵である。
一方、沖縄(基地)問題もまた、資本と国家の問題に帰結する、というより資本と国家の問題そのものである、というのが私の認識である。
そこで重要なのが引用の言葉である。生身の民衆の、文字通り生死をかけた運動では、その抵抗の相手が「日本政府」であり「アメリカ政府」であり、「日本人」」であり「アメリカ軍」である。あるいは、その時々の権力者の名前や、対峙する官僚機構の固有名であったりする。だが、その問題の根本――資本と国家――を問わなければ、それがいかにして生じるかを認識しないならば、それらの相手をいくら批判しても、それを解消することも回避することもできない。批判するな、というのではない。批判せざるを得ないのだ。しかし、そうすると同時に、その問題が「なぜいかにして生じるのか認識」することが、遠くて近い道なのだ、と私は思う。
Posted by 24wacky at 20:15│Comments(0)
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「泡瀬干潟で餅つき大会」&デモ協力&署名のお願い【リーフチェッカーさめの日記】at 2009年01月10日 00:51