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2009年03月10日

沖縄アソシエーショニズムへ その11

まとめ

17世紀から19世紀にかけて琉球は、一方では中国の冊封体制下の朝貢国として、もう一方では薩摩藩島津氏の「領分」として外交を展開した。その具体的中身を論じたのが本書である。その基本的姿勢として、旧来の研究にみられる、一方的な薩摩支配による傀儡政権説の見直しがあり、琉球王国の「主体性」の在り処を丁寧な分析により浮かび上がらせることに成功している。

その具体例として論じられているのは、島津支配直後の尚寧政権が日明勘合貿易交渉を突きつけられながらそれを拒否し、外交課題である十年一貢からニ年一貢へ戻すことに努力したこと、遷界令撤廃(1681年)後、清朝の要請する遭難民の福州直送を島津氏にお伺いをたてず独自の判断で受諾したこと(その結果、幕藩制国家の送還システムである長崎経由から離脱した)、島津氏の裁判権介入において、刑罰執行権は琉球側にあったこと、1720年代に島津氏が年貢増徴を要求した時、国内の疲弊状況などを理由に交渉し、一定の譲歩を引き出したことなどである。

他方で、中国との関係も決して磐石なものとはいえなかった。琉球側があの手この手を使っての維持・継続を図ったというのが正しい。その論理を短く表現すれば、《中華帝国の理念、すなわち冊封・朝貢関係の強固な維持によって皇帝の徳化を蒙る朝貢国=琉球》(p.301)ということになる。琉球はそれがたんに表面的なものでないことを示すために、18世紀以降、イデオロギー面での儒教倫理の導入、海船をほぼ中国のジャンク型へモデルチェンジするなど中国志向を強めた。

このように、琉球王権は、対外的には中国への朝貢、そして島津氏への仕上世(年貢)貢納という「従属的二重朝貢」を土台としていた。また国内的には、諸集団を統括し古琉球以来の貢納制的システムをとっていた。

ところで、薩摩藩による琉球支配について、著者はその限界性を封建的支配関係に定めている。

そもそも、島津氏が琉球王権を同氏の領主権の中に最終的に吸収・同化しえなかったことは、薩摩藩の廃藩置県(=島津氏の領主権の解体)後においても琉球王権が存続していたことからも明瞭である。島津氏が中山王を抹殺・消滅させない限り、その王権は機能していたのであり、島津氏は「起請文」体制によって島津氏への全面的降伏と服属を誓約させたにも関わらず、現実的には琉球王権は広範な統治権を保持していたのである。そのことは、島津氏の捕虜として日本へ連行された際にも琉球王国には暫定政権が樹立されており、決して島津氏占領軍によって琉球国の政治性・自律性が完全に剥奪されていたわけではなかった。薩摩藩権力は琉球王権の存在を前提にした統御システムを構築していたのであり、それは封建的支配関係に止まっていたと見なすことができよう。(p.301~302)

薩摩藩権力が《琉球王権の存在を前提にした統御システムを構築し》なければならなかったのはなぜなのか。それを問うことは重要であるが、その前に、その封建的支配関係に存した交換様式について考えることを次回以降の課題としたい。












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