2009年08月05日
沖縄アソシエーショニズムへ 34
私はこれまで残念ながら与那国島へ一歩も足を踏み入れたことがない。そんな奴がどうしてこんな偉そうなことをのたまうことに時間と労力を費やすのか。それはひとえに座間味島での多少の経験に因る。
水不足に悩まされる座間味村が貯水池の造成を自衛隊に依頼したというニュースは記憶に新しい。
貯水池陸自に依頼 座間味 / 財政難で村が計画 / 専門家「問題残る」(沖縄タイムス3月13日付)
5月に行われた村長選では、この問題が争点となっているとタイムスは報道している。
以下もう一人の候補者の意見、最後に当時の仲村村長の言葉で結んでいる。
私はこの記事を読んで首を傾げた。降って沸いたような自衛隊による貯水池造成問題が座間味村長選の少なくとも主要な争点でないことは、ここ数年の座間味村の経緯を多少知る者として自明のことであったから。事実選挙期間中に訪れた際、ある候補者の運動をしている村民に尋ねたところ、「争点の一つではあるが、それがメインではない」という返事が返って来た。
はっきりいってしまえば、座間味村のような離島の村長選において、新聞の見出しで採用される短い言葉でまとめられるような争点など存在しない。それは強いていえば、長年の村政によって形成された諸問題の総体の(非)解決というようなものになるだろうか。
とにかく私がいいたいのは過ぎた座間味村長選の争点についてではない。メディアによる争点の捏造のされ方を問題にしているのだ。宮里哲氏は「イデオロギーの問題でない」と、沖縄の保守系の人たちが平和を訴える革新系を嘲るときに使う常套句を使っているが、これは誰に向けられた言葉だろうか?宮里清之助氏は単に貯水池造成の無効性を理論的に述べているのみで、反戦平和の立場から(保守系がいうところの「イデオロギーの問題」から)反対するコメントをしているわけではない。もう一人の大城氏についても同様である。であるならば、「イデオロギーの問題でない」というこの言葉が向けられたのは誰に対してか。無論村内にそのような主張をする人たちはいるだろう。しかしながらである。それはもしかしたら取材をしている新聞記者に対してではないだろうか。「集団自決の島」であるならばこの問題が争点にならないはずはないというような思い込みをあらかじめ持ち込んだ記者の気配を察して、それに対してガードを固めての発言ということはないだろうか。それは図らずも与那国町長選の争点報道と構図が酷似している。
余談になるが、その後新村長宮里哲氏は自衛隊依頼を留保する発言をした。「自衛隊依頼 村長「未定」 / 座間味貯水池造成」(沖縄タイムス7月24日付)によると、宮里哲村長は7月22日のむらづくり意見交換会で「自衛隊に頼むと決まってはいない」と発言し、他の補助事業で行う可能性も示唆した。《自衛隊への依頼を選択肢の一つとしながら「イデオロギーの問題もあり、簡単にやるつもりはない」と述べた》という。そもそも新村長は「イデオロギー」という言葉の意味を分かっているのだろうか?
それはともかく、誤解されるといけないのでここで一言しておこう。私は自衛隊誘致の問題を軽視してよいといっているのではまったくない。それは極めて重要な問題であり、大きく報道されるべきである。沖縄メディアは愚直なまでにその姿勢を追及すべきである。
QAB岸本記者は注意深く「自衛隊の問題はあくまで争点の一つでしたが」と断りつつ、村長の背後に次の村議選を見越した村議たちの思惑が潜んでいることを指摘している。
与那国町長選挙 現職の外間町長 再選(QAB「ステーションQ」8月3日付)
しかしその分かり易い「大問題」を扱うときに、同時に在る微細で、入り組んで、年季の入った、いささか変化に乏しい、非理性的な諸々の問題群を、その無自覚な突風で吹飛ばすようなことはすべきでないといっているのだ。そこから沖縄の問題を扱わない本土メジャーメディア→弱小市町村の問題を扱わない沖縄メディア→弱小市町村という差別構造が見えてくる。
とはいえ現実的にいって、それを完全に解消するのは商業メディアには無理かもしれない。それに対して市民メディアやオルタナティブなメディアが可能性としてある。私の関心は後者が持続的に運営できる仕組みについてにある。
貯水池陸自に依頼 座間味 / 財政難で村が計画 / 専門家「問題残る」(沖縄タイムス3月13日付)
5月に行われた村長選では、この問題が争点となっているとタイムスは報道している。
水源確保が争点に / 3候補予定者 政策に差異
同村の制限給水は8年連続。生活用水の確保は最優先課題である一方で、「集団自決(強制集団死)」など沖縄戦の体験から自衛隊への拒否反応はいまだ根強いとされる。
自衛隊活用法について、宮里清之助氏は「白紙撤回」を明言。「貯水池を造成しても、雨頼みの状況は変わらない」とし、「海水淡水化施設敷設、沖縄本島からの送水管敷設、船舶輸送も選択肢に含め村民と議論したい」と訴える。
宮里哲氏は「早急に打てる策としては、自衛隊による造成が最も有効。水確保は優先すべき課題であり、イデオロギーの問題ではない」とし、ほかの2人に比べ、自衛隊の利用に前向きだ。
(沖縄タイムス5月11日付記事より一部転載)
以下もう一人の候補者の意見、最後に当時の仲村村長の言葉で結んでいる。
私はこの記事を読んで首を傾げた。降って沸いたような自衛隊による貯水池造成問題が座間味村長選の少なくとも主要な争点でないことは、ここ数年の座間味村の経緯を多少知る者として自明のことであったから。事実選挙期間中に訪れた際、ある候補者の運動をしている村民に尋ねたところ、「争点の一つではあるが、それがメインではない」という返事が返って来た。
はっきりいってしまえば、座間味村のような離島の村長選において、新聞の見出しで採用される短い言葉でまとめられるような争点など存在しない。それは強いていえば、長年の村政によって形成された諸問題の総体の(非)解決というようなものになるだろうか。
とにかく私がいいたいのは過ぎた座間味村長選の争点についてではない。メディアによる争点の捏造のされ方を問題にしているのだ。宮里哲氏は「イデオロギーの問題でない」と、沖縄の保守系の人たちが平和を訴える革新系を嘲るときに使う常套句を使っているが、これは誰に向けられた言葉だろうか?宮里清之助氏は単に貯水池造成の無効性を理論的に述べているのみで、反戦平和の立場から(保守系がいうところの「イデオロギーの問題」から)反対するコメントをしているわけではない。もう一人の大城氏についても同様である。であるならば、「イデオロギーの問題でない」というこの言葉が向けられたのは誰に対してか。無論村内にそのような主張をする人たちはいるだろう。しかしながらである。それはもしかしたら取材をしている新聞記者に対してではないだろうか。「集団自決の島」であるならばこの問題が争点にならないはずはないというような思い込みをあらかじめ持ち込んだ記者の気配を察して、それに対してガードを固めての発言ということはないだろうか。それは図らずも与那国町長選の争点報道と構図が酷似している。
余談になるが、その後新村長宮里哲氏は自衛隊依頼を留保する発言をした。「自衛隊依頼 村長「未定」 / 座間味貯水池造成」(沖縄タイムス7月24日付)によると、宮里哲村長は7月22日のむらづくり意見交換会で「自衛隊に頼むと決まってはいない」と発言し、他の補助事業で行う可能性も示唆した。《自衛隊への依頼を選択肢の一つとしながら「イデオロギーの問題もあり、簡単にやるつもりはない」と述べた》という。そもそも新村長は「イデオロギー」という言葉の意味を分かっているのだろうか?
それはともかく、誤解されるといけないのでここで一言しておこう。私は自衛隊誘致の問題を軽視してよいといっているのではまったくない。それは極めて重要な問題であり、大きく報道されるべきである。沖縄メディアは愚直なまでにその姿勢を追及すべきである。
QAB岸本記者は注意深く「自衛隊の問題はあくまで争点の一つでしたが」と断りつつ、村長の背後に次の村議選を見越した村議たちの思惑が潜んでいることを指摘している。
与那国町長選挙 現職の外間町長 再選(QAB「ステーションQ」8月3日付)
しかしその分かり易い「大問題」を扱うときに、同時に在る微細で、入り組んで、年季の入った、いささか変化に乏しい、非理性的な諸々の問題群を、その無自覚な突風で吹飛ばすようなことはすべきでないといっているのだ。そこから沖縄の問題を扱わない本土メジャーメディア→弱小市町村の問題を扱わない沖縄メディア→弱小市町村という差別構造が見えてくる。
とはいえ現実的にいって、それを完全に解消するのは商業メディアには無理かもしれない。それに対して市民メディアやオルタナティブなメディアが可能性としてある。私の関心は後者が持続的に運営できる仕組みについてにある。
続く
Posted by 24wacky at 00:09│Comments(0)
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