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2010年03月01日

永遠平和は人間の理性や道徳性によっては実現されない

「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモ その43

カントの『永遠平和のために』は、これまでたんに戦争を防止するアイデアとして読まれてきた。その代表がヘーゲルである。ヘーゲルは『永遠平和のために』を理想論だと批判した。ヘーゲルの考えでは、規約に違反した国を処罰する覇権国家がなければ平和などありえない。



しかし、カントはそれほどナイーブではない。ヘーゲルとは違った意味でホッブスと同じ見方をしていた。人間の本性には「反社会的社会性」があり、それをとりのぞくことは出来ないと。カントは国家揚棄へ至るプロセスとして「諸国家連邦」を構想しつつ、それが人間の理性や道徳性によって実現されるとはまったく考えなかった。それをもたらすのは、むしろ、人間の「反社会的社会性」、すなわち戦争だと考えたのである。むしろ、戦争を通して、諸民族がより大きな連合体を形成するようになる。

19世紀末、帝国主義の時代に支配的だったのはヘーゲルの考え方であった。つまり、大国の覇権争いが「世界史的国家」をめぐる争いとして意味づけられるという。その結果が第一次世界大戦である。一方、そのときカントの国際連邦論も復活し、第一次大戦後、国際連盟が生まれた。それはカント的理想が生み出したというよりは、第一次大戦によって、人間の「反社会的社会性」が未曾有の規模で発現されたからである。

国際連盟は提案者のアメリカが批准しなかったため無力であり、その後の第二次世界大戦を防ぐことができなかった。しかし、その結果、国際連合が形成された。だが、これも無力である。国連に対しては、有力な国家が目的を達成するための手段でしかない、あるいは、独自の軍事組織がないため、軍事力を持った強い国家に頼らざるを得ないではないかという批判がなされる。すなわち、国連によって国際紛争を解決しようとする考えは「カント的理想主義」にすぎないと。

しかし、と柄谷はいう。《だからといって、それを嘲笑して無視し続けるならば、どういうことになるか。世界戦争である。しかし、それは新たな世界連合を形成することに帰結するだろう。したがって、カントの見方には、ヘーゲルのリアリズムより、もっと残酷なリアリズム、ある意味でフロイト的な洞察がひそんでいる》。

カントにとって、諸国家の戦争を抑えるのは、他に抜きん出たヘゲモニー国家ではなく、諸国家間の戦争を通して形成された諸国家連邦なのである。

勘のいい人は気づいたかもしれないが、これらカントとヘーゲルについての議論は、現代のアクチュアルな問題についてもいえる。たとえば、2003年のイラク戦争について。このとき、国連から離れて単独行動主義をとるアメリカと、多国間協調主義をとるヨーロッパとの対立があった。ここでのアメリカの論理は、ネオコンの論客、フランシス・フクヤマも引用したヘーゲルにもとづいている。つまり、戦争が世界史的理念を実現するものだと考えるような。

ヨーロッパの立場がカント的で、アメリカのそれがヘーゲル的だとすると、その両者を無効だとしたネグリ&ハートの「マルチチュード」は初期マルクス的だといえる。しかし、ネグリ&ハートには、「世界同時革命」がなぜ失敗したかについての反省が欠けている。

われわれは、カントはヘーゲルによって乗り越えられ、ヘーゲルはマルクスによって乗り越えられたというような通念を斥けなければならない。われわれはむしろ、カントを、各地の資本と国家への対抗運動やコンミューンが分断され対立されないようにするにはどうすればよいのか、という問題意識から読み直すべきである。




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