2017年03月27日
占領空間・直接行動・日常━━高江ヘリパッド建設阻止行動の広がりによせて」大野光明
「占領空間・直接行動・日常━━高江ヘリパッド建設阻止行動の広がりによせて」(大野光明)は、東村高江の米軍ヘリパッド建設への抵抗運動について、今日までの意義と課題がまとめられている。ここで展開される問題意識の共有は必須である。
大野氏による問題意識は次のようなものである。10年が経過した高江の運動には現場における実践の多様性と、高江という空間を越えた運動のつながりと広がりがあることが大きな特徴である。しかし、2016年7月22日の強制排除以降、大きな変化を余儀なくされた。森と座り込みの空間の破壊が激しく、まったく違った風景へと変化した。工事の進め方も変わった。日本各地から500人ともいわれる機動隊員と民間警備員が派遣され、それまでかろうじて可能だったかれらと運動側との直接的・対面的なコミュニケーションが不可能となり、国家の管理がそれまで以上に徹底された。
それに応じて、それまで以上に報道され、行動に参加する人の量も増加したことで、高江がセンセーショナルにスペクタクル化した。
具体的な運動の変化は主に次の2点である。「外」からの参加者が、自らの求める「運動」像を持ち込み、時に押しつけること(この問題は2016年以前からあった。それがより顕在化したということか)。運動の「中心」や「リーダー」を設定される場面があったこと。その動きはカメラやメディアが画面のなかに「中心」を設定し、それを流通させることで促される。それを見た人々が現場を訪れ、「中心」や「リーダー」を反復的に受容し、また発信していくと、大野氏は興味深い認識をしている。
たしかにかけがえのないカリスマ的活動家は存在するだろう。しかし、「中心」を設定することは運動の創造的な力を単一化してしまう危険性をはらんでいる。
だから、人々の集合的な力は、「中心」へと求心化されていく流れと、戦術の複数性のもとで遠心化する流れとのかけあわせのなかでつくられるのではないだろうか。
(31〜32ページ)
私は大いにうなづくし、大野氏の指摘は、実は高江の運動が始まった2007年当初から問題含みとしてあった。
高江で阻止行動をしている人たちのほとんどはそれまで反対運動というものをしたことがない人たちでした。そして従来の反対運動のスタイルーー鉢巻にタスキ、幟を立てコブシを上げ「はんたーい!」というスタイルに違和感を持っていました。なるべくならそういう形を避けたい、というのが彼らの本音だったはずです。ところがいかんせん彼らだけでは少人数ゆえ阻止できません。高江以外からも支援が必要です。その支援者の中には運動のベテランたちがいます。運動のやり方を知らない高江の人たちはベテランのやり方にある程度従わなければなりません。これは7月2日の日付、座り込み初日の模様です。
草稿 沖縄で改めてスローを考える(2008年03月17日)
2008/03/17
昨日のハチドリワークショップは盛況のうちに終わった。JanJanに近々記事をアップする予定です。オイラの問題提起部分は時間が押し、後半部分をカットせざるを得なかった。以下に全原稿をアップします。ーーーーーーーーーーーーー【草稿】沖縄で改めてスローを考えるみなさんこんにちは。那覇…
「『中心』へと求心化されていく流れ」は直接的・急進的・垂直的でわかりやすい。一方、「戦術の複数性のもとで遠心化する流れ」は間接的・差延的・水平的で目立ちにくい。両者の「かけあわせ」が重要であるが、前者に流れていく者たちは後者の意義を認識できない傾向がある。
私の目下の課題は、国家によって管理不可能な空間を、高江の「外」に無数に創り出すことであるといいたいが、そうやって散種された場の変態的なイメージが沸かないのが無念である。
「占領空間・直接行動・日常━━高江ヘリパッド建設阻止行動の広がりによせて」
著者:大野光明
『越境広場 3号』所収
発行所:越境広場刊行委員会
発行年月:2017年2月28日
Posted by 24wacky at 20:27│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした