2011年05月04日

『エリックを探して』

『エリックを探して』

桜坂劇場で『エリックを探して』を観る。

「ケン・ローチ初のハッピーエンド」というコピーが微笑ましいだけでなく、むろんオイラみたいなケン・ローチ好きにはまたまたたまらない傑作だ。

主人公エリックが困難に直面しいかにそれを乗り越えていくか、その先にはかつて自分の過ちで去っていった妻がいる。そのガイドをサッカー界のスーパースター、エリック・カントナが担う巧妙さが見所であるのはいうまでもない。

困難の解決方法はカントナのアドバイス「仲間を信じるんだ」にあり、そこでせり出してくるのが行きつけのマンチェスターのパブでビール片手にいつも与太話に講じている職場の仲間たちだった。

なんともこのあたりがどうしようもなくケン・ローチ的でよいのだ。まずはパブという「公共空間」があり、そこで労働者階級の仲間たちの中間組織が成立している。それこそが強みなのだとケン・ローチは断言してはばからない。決して実在のスーパースター出現の夢物語に説話構造を任せることをしない彼の主張こそが映画たらしめている。

上映は6日までと残りわずかだが多くの人にぜひ観てほしい。



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この記事へのコメント
「公共空間」、中間組織、説話構造→ケン・ローチ的、なるほど、さすが24wackyさんです。私が観たのは唯一『大地と自由』のみですが、まさにそこのところが違和感として残りまくり、その後、縁がないままです。ローチの信じるところに少しでも耳を傾ければよかったのかもしれません。
Posted by 齊藤 at 2011年05月05日 00:50
とりとめの無い雑文にコメントいただきありがとうございます。中間組織が国家により根絶させられたことが、デモも起こらない不気味な国民性を形成させたとする柄谷の論からきています。そこでは中間組織と個人は対立概念ではなく、むしろ中間組織がしっかりすることで個人が鍛えられるのだという考えが刺激的でした。

『エリックを探して』では、人生の負け犬エリックが、自在に現れては消える憧れのヒーロー・カントナに導かれ徐々に変化をとげ、困難を乗り切るという筋です。それは例えば「ユーモアとペーソスに満ちたコメディ」と容易に謳い文句がつけられる体裁であり、事実宣伝媒体を通した予備知識から観客はそれを期待することでしょう。

しかしながらクライマックスで俄然動き出すのはカントナではなく、それまで後景に退いていた職場の仲間たちです。この唐突さがケン・ローチ的ではないかと。

職能集団=アソシエーションがまさに形成されるのは映画の危機的状況(クライマックス)においてであり、その「評議会」が開催されるのがパブという空間であることは、ケン・ローチにすれば疑問の余地のないことだったのではないだろうかと。

ついでにいうと、この仲間たちの間で繰り広げられる粗野な会話のやり取りが、シナリオとして秀逸です。
Posted by 24wacky at 2011年05月05日 02:21
 
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