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2019年03月09日

「第三者の審級」『〈自由〉の条件』大澤真幸より

「第三者の審級」『〈自由〉の条件』大澤真幸より

 文庫にして570頁の大著、著者のまわりくどさここに極まれりという感がある。初見では100頁あたりで挫折、しばらくデスク上に“積ん読”状態にしたが、ふと、あるとき、「とって読め」との命令が下され(聖アウグスティヌスか俺は!?)、再読後、一気に読み終え、それで終わらず、直後にメモを取った何ヶ所もの重要部分を読み直すという集中作業にまで至った。にもかかわらず、「現代社会で個人に与えられた自由の領域は拡大しつつあるように見えるのに、閉塞感が感じられるのはなぜか、自由とは何か」という本書の全体像がつかめない不甲斐なさよ、、、さて、ここでは、最重要概念である「第三者の審級」について確認し、整理するにとどめておく。

 対象に触れることの体験。われわれは対象に触れ、この指の近傍の内に対象を確保する(求心化)。対象に触れることは、同時に、その対象に触れられることでもある。指で対象に触れているとき、この指こそが、まさに触れられていることに気づく。触れられているということは、「触れている」と感じている指の方がむしろ対象なのであって、触れることの能動性はあちら側にある。しかし、あちら側の触れることの能動性は、こちら側の指の触れる作用の単なる対象には還元できない。この指の触覚の対象ではあり得ない限りにおいて、向こう側に、この指の能動性に匹敵するもうひとつの能動性が現れる(遠心化)。

 求心化/遠心化作用が連動する中で、ある志向作用(身体に所属する任意の心の操作)が対象を捉えている場合、その志向作用は、求心化/遠心化作用を媒介にして同時に顕現する〈私〉と〈他者〉の双方に共帰属する。このとき、〈私〉と〈他者〉は、同じ志向作用の担い手としてみずからを直観し得る限りにおいては、両者の差異を無関連化することができるのであり、一つの間身体的な連鎖のうちに組み込まれている。

 このことを、時間の発生という観点からとらえてみる。われわれは対象に触れ、自身に触れているもうひとつの指を、まさに触れることの能動性のままに捉えようとするや、もうひとつの指は対象化され、事物に転換してしまう。捉えようとする働きから逃げ去ってしまう。言ってみれば、〈他者〉は、〈私〉からの退却を通じてのみ(〈私〉に対して否定的にのみ)、その存在を告知する。だから、〈私〉は、〈他者〉が〈私〉に触れることの現在性には、決して立ち会うことはできない。このように、〈他者〉は、どのような意味づけ(予期)をも裏切る。要するに、〈他者〉は、不意打ちの可能性である。

 〈私〉が〈他者〉を追い求めると、その〈他者〉はもはやそこにはいない。このことは、「かつて〈私〉に触れていた」と見なしうるような他者が存在していたともいえる。「もはやいないがかつていた」と見なしうる他者とは、実体化された間身体的連鎖である。この実体化された間身体的連鎖は、〈私〉が「あなた」と呼びうるような形態で、〈私〉に向かい合うことがありえない他者である。こうした他者を「第三者の審級」と呼ぶ。

 そして、この「第三者の審級」こそ〈自由〉の条件である、ということなのだが。

『〈自由〉の条件』
著者:大澤真幸
発行:講談社文芸文庫
発行年月:2018年11月9日


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