2019年07月18日
『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』松本卓也

西洋思想史に「創造と狂気」という論点を設定し、体系的に読みやすく、しかも読み応えある内容に仕上げている。臨床的なワードと思想が交差され、「こんな本が読みたかった」と思える一冊。
統合失調症中心主義。それは、統合失調症者は普通の人間では到達できないような真理を手に入れているという考え。悲劇主義的パラダイム。それは、統合失調症者が理性の解体と引き換えに真理を手に入れるという構図のこと。無論、それらは西洋思想史から現在の我々の常識的なパースペクティヴに浸透している。著者はそれに対し、再考を促す。
近代的主体を築いたデカルトのコギトについて、「私がそれを言うたびごとにおいてしか真ではありえず、私はたえず悪霊に欺かれる可能性をもってしまっている」(119ページ)と逆手に取る。「我思う」の外部は悪霊がウヨウヨしているというわけだ。
人間の理性において何の認識が不可能になったかを徹底させたカントについては、「狂気を内包し得る人間」を問題にし、そのテーマを抑圧することで狂気を「隔離」したということになる。
他にも、プラトン、アリストテレス、ヘーゲル、ヘルダーリン、ハイデガー、ダリ、ラカン、フーコー、アルトー、デリダ、そしてドゥルーズなどが、みんな「創造と狂気」を思想の根底に置いていたというのだから、もう、すごい。
『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』
著者:松本卓也
発行:講談社選書メチエ
発行年月:2019年3月11日
2019/06/10
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2019/05/12
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2019/05/11
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2018/10/09
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冒頭からリゾームという言葉のイメージの噴出に息が切れそうになる。リゾームとは樹木やその根とは違い点と点を連結する線からなる。それは極限として逃走線や脱領土化線となる。樹木は血統であるが、リゾームは同盟である。リゾームは多様体である。リゾームは生成変化である。リゾームとは定住性ではなく遊牧性で…
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オープンダイアローグの前提は「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。コミュ力の対象は「想像的他者」、すなわち自己愛的な同質性を前提とする他者。その対極はラカン的な「現実的他者」で、決定的な異質性が前提となるため対話もコミュニケーションも不可能。それに対しダイアローグの対象は「象徴的他者」…
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2017/02/17
山形県にある佐藤病院の重度痴呆症病棟の長期取材である。半分ほど読み進めたところで、先を読む意欲が湧かないのはなぜだろう。 絶叫したり、大暴れしたり、大便を手づかみで投げつけたりする女性につかまれ、著者はその力強さの源泉を知りたいと思う。それが見つかれば、「認知症患者」が「新たな姿で立ち上…
2017/02/12
『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…
2017/01/05
本書は、ドゥルーズとガタリやデリダといったポスト構造主義の思想家からすでに乗り越えられたとみなされる、哲学者で精神科医のラカンのテキストを読み直す試みとしてある。その核心点は「神経症と精神病の鑑別診断」である。ラカンは、フロイトの鑑別診断論を体系化しながら、神経症ではエディプスコンプレクスが…
2016/11/20
ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…
2016/11/19
「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…
2018/02/18
ドゥルーズ=ガタリ連名による著作『アンチ・オイディプス』(1972年)、『千のプラトー』(1980年)、『哲学とは何か』(1991年)は、いずれも資本主義打倒のための書である。三作は利害の闘争から欲望の闘争へという戦略(ストラテジー)において共通するが、戦術(タクティクス)が各々で異なる。『アンチ・オイ…
Posted by 24wacky at 09:33│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした