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2019年09月15日

『掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集』

『掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集』

 注目される「発見」された作家の作品集。その中から「どうにもならない」を例に、初見の雑感。

 アルコール依存症の女に深夜、発作が始まる。彼女は部屋中の現金をかき集め、歩くと45分はかかる酒屋へと向かう。失神寸前になりながらもたどり着いた開店前の酒屋の前には黒人の男たちがたむろしている。男たちは彼女にやさしく順番を譲ってくれる。ウォッカを買った彼女は息子たちが目を覚ます前に家に戻り、ジュースで割ったウォッカを飲み、「アルコールの優しさが体のすみずみまでしみわたった」。だいぶ回復した彼女は山ほどの洗濯物を洗濯機に入れる。やがて起きてきた息子たちと朝の挨拶をして朝食をすますと学校に送り出す。この一つのシークエンスで構成されるショート・ストーリーは5ページで終わる。

 読み直して気づいたが、これは三人称の小説である。てっきり一人称だと勘違いしていたが、最初のセンテンスから「彼女は」と主語が明記されている。私に勘違いを起こさせるのは、その独特の文体に依る。「彼女は〜した」という主語+述語の破綻のない文章に、彼女の内面の語りが混在している。たとえば、最初のセンテンスが三人称で始まった後、次のように続く。

 こういうときの裏技、呼吸をゆっくりにして心拍数を落とす。ボトルを手に入れるまで、とにかく気を落ちつけること。まずは糖分。砂糖入りの紅茶だ、デトックス施設ではそれが出る。でも震えがひどすぎて立てない。床に横になり、ヨガみたいにゆっくり深呼吸する。考えちゃだめ。今の自分のありさまについて考えるな、考えたら死んでしまう、恥の発作で。
(116ページ)

 「こういうときの〜それが出る」は内面の語り、「でも震えがひどすぎて〜深呼吸する。」で三人称に戻り、「考えちゃだめ。〜恥の発作で。」では、再び内面の語りへ切り替わる。

 ここでの「考えちゃだめ。〜恥の発作で。」を内面の語りとしたが、情けない「彼女」に対しメタレベルから距離をおき、しかもヒューモアを持って語りかける「私」という視点といったほうが正しいかもしれない。

 むろん三人称に主人公の内面を描出する手法自体は、近代小説では珍しくない。しかし、近代小説の自明の装置としてのそれは、たんに「装置」である。これに対して、ルシア・ベルリンの「私」という視点では、メタレベルにいる「私」と眼差され語りかけられる「彼女」のあいだに、ヒューモアがあると同時に、近過ぎる、タイトな距離感がある。だから、読者は緊張と緩和を反復させながら読む。

 そもそも、アルコール欲しさから堪らず深夜(早朝?)酒を買い出歩き、それでも息子たちのために洗濯機を回すことも朝食を用意することもこなす妙な生真面目さを発揮し、その殊勝な振る舞いが見せかけだったかのように、息子たちを学校に送りだした直後に再び酒を買いに走るというオチがつく構成そのものが、緊張と緩和そのものではないか。

 発作を抑えようと努力する引用部分の後、「彼女」は本棚の本のタイトルを読みはじめ、いくつかの作家の名前が挙げられ、少し楽になる。ここで作者と主人公と読者はつかの間のカタルシスを共にする。私はといえば、その名前の一人、シャーウッド・アンダーソンを自分の本棚から取り出し、何十年ぶりかで読んでみたくなっている。

『掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集』
著者:ルシア・ベルリン
訳者:岸本佐知子
発行:講談社
発行年月:2019年7月8日



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