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2016年07月09日

『是枝裕和X樋口景一 公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?』

『是枝裕和X樋口景一 公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?』

 何を隠そう私はクリエイターという言葉の響きがきらいだ。過去何度かクリエイターとして名指しされたことがあるが、そこはかとなく不愉快であった。曖昧なのに何がしかの権威を持つような含みが嫌なのか。だから、本書冒頭に紹介される「クリエイティブな仕事とクリエイティブでない仕事があるのではない。その仕事をクリエイティブにこなす人とクリエイティブにこなさない人間がいるだけだ」という言葉は一応合点がいく。クリエイティブというのは職種ではなく、仕事をする態度であるという意味として。一応というのは、世の中にはどう考えてもクリエイティブでない仕事はあるよね、そういう仕事をやったことがない人がいえる言葉でしょ、と凡庸なツッコミを入れたくもなるからだ。

 クリエイティブ以外にも、本書ではクリエイター談義に欠かせないタームについての議論が展開され面白い。「自分」(自己表現)、「才能」などなど。

 是枝裕和は、ディレクターが吸いたいタバコを吸いたいタイミングで用意することがアシスタントディレクターの仕事として要求されるが、それがクリエイティブなのかと疑問を持つ。同時に、そこで「自分には向かない」と思いがちだがちょっと違う見方をしてみてはどうかととどまることを勧める。
 
 僕は、映像はつくっているけれど、自分を作家だとは思っていないんです。自分のなかに溢れんばかりのイマジネーションがあるわけではない。何かと関わったときに、「あっ」と発見するとか、知らなかったことに出会ってそれを形にしていく媒介だと思っている。テレビのディレクターとはそういうものだと思っているんです。そのために視野を広くするとか、人とコミュニケーションできる言葉をもつとか、そのへんはスキルとしていくらでも鍛えられます。

僕は全くそうしたスキルのない人間だったから、それが仕事によって鍛えられたんだけれど、そのときにはそれほど「自分」は必要ないというか、あるとむしろ邪魔になる。だから、「自分なんてたいしたものじゃない」と気づくことができれば、「自分」が大事になって仕事を辞める人はもうちょっと減るんじゃないかな。(37ページ)

 「自分なんてたいしたものじゃない」といえば、「ひらめき」(才能)というのもたいしたものではない。ひとり部屋のなかで悩みに悩んで思いつく「ひらめき」によって、そのとき自分は天才ではないかとうぬぼれてしまうが、人間が思いつくものというのは、すでに誰かによって思いつかれている。それよりも、そんな「ひらめき」をたくさん持ち寄ってたたき台とし、他人とコミュニケーションすることによってできてくるなにかの方がはるかに大事なのだ。

 樋口景一は「才能ってなんだろう」という議論のなかで、カンヌ国際広告祭審査委員長のコロンビア人の審査基準が「勇敢さ」であったというエピソードを紹介している。こんなことを言うと問題が起きるのではという常識や分別を押しのけてあえて言い切る勇敢さを。
 
「勇敢さと臆病さは同居していて、勇敢にものを伝えるときには、自分が本当にこれを言っていいんだろうかというドキドキした臆病さと葛藤しなくてはいけない。葛藤しないでいきなり出て行こうとするのはただ無謀でしかない。無謀と勇敢は違っていて、いろいろ怖がって、自分の中で試行錯誤しながらそれでもやることに意味がある。外に出て行く姿勢が自分の勇敢さであって、それが審査基準ではないか」(84ページ)

 これは精神論として語られるべきではない。その勇敢さが作品に現れるというようにとらえるべきだろう。そこに人びとはクリエイティブを感じ、心を動かされるのだ。

 二人の対談を読み進めていくと、どうやら答えは結果ではなくプロセスにありそうだ。ドキドキした臆病さと葛藤しつつ前に出るというプロセスが。

 作品は社会の役に立つのかという問いに対し、社会を変えるという前に、その取材対象と出会って自分が変わることが先であると是枝は答え、こう続ける。「撮ることによって答えが見つかったり、逆に撮ることによって何かがわからなくなったり、そういう自己の揺らぎや自己変革みたいなものが、作品にとって大事なんだ。結果じゃないんだけど」

 この議論をアクティヴィズムとエンターテイメントの違いと言い換えてみる。むろんアクティヴィズムにも、その過程で自己の揺らぎや自己変革を伴う場合があるだろう。社会批評性のあるエンターテイメントもあり得る。問題なのは「その仕事をクリエイティブにこなす人とクリエイティブにこなさない人間がいるだけだ」と、まとめてみたくなる。

 いや、待てよ。私は両者の境界をあえて曖昧にしたいのだろうか。それとも、境界を越境する、その「態度の変更」に可能性をかけているのか。わからなくなってきた。

『是枝裕和X樋口景一 公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?』
著者:是枝裕和 樋口景一
発行所:廣済堂出版
発行:2016年6月20日



タグ :是枝裕和

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