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2015年07月02日

『沖縄 うりずんの雨』

『沖縄 うりずんの雨』

過酷を極めた地上戦としての沖縄戦の経験と現在まで続く米軍基地占拠を結びつける歴史と民族の情念と思想。これこそ「日本人」が理解していないことであり、だからそれを伝えたい。その主題は沖縄戦と米軍基地という「過去」と「現在」をモンタージュさせる冒頭のイントロダクションですでに明確である。その先にユンカーマン監督の以下のメッセージが続くだろう。

米軍基地を撤廃するための戦いは今後も長く続くでしょう。沖縄の人々はけっしてあきらめないでしょう。しかし、沖縄を「戦利品」としての運命から解放する責任を負っているのは、沖縄の人々ではありません。アメリカの市民、そして日本の市民です。その責任をどう負っていくのか、問われているのは私たちなのです。


私はこの完成度の高いドキュメンタリーを受けとめ、「普遍と特殊のアポリア」を見出す。2時間30分という長尺のなかで、沖縄戦経験者、沖縄戦経験者を親に持つ人、沖縄戦を経験した元米兵、元日本兵、「戦後」沖縄に生まれたジャーナリスト、写真家、普天間基地フェンスに抗議の意思表示をする人、それに対するカウンターの意思表示をする人、そして1995年少女暴行事件の犯罪者といった人々の語りがまとめられている。ひとつひとつは「特殊」なこれら多様な声をひろいまとめることでひとつの「普遍」を表現できる。映画の作法は一見そのように見ることが無難かもしれない。憲法という普遍をとりあげた監督という経歴がいっそうそのような誘導を可能にする。そしてこの捉え方は、「反戦平和」を唱え憲法9条をたよりに沖縄と連帯を求める「本土」のリベラル層にはことのほか都合が良い。

しかしながらこの映画は「普遍」を欲望するその一歩手前で立ち尽くしている。それは様々な声と声をつなぐいくつかのインサートカットの無言が表象する。たとえばあの青い(はずの)空と白い(はずの)雲の情念が煮えたぎったようなカット。たとえば普天間基地のフェンスに括られた「基地は本土へ」というメッセージボード。たとえば読谷村の「集団自決」(強制集団死」について証言を終えた後の知花さんと娘のあいだに沈黙するほんの数十センチの距離。

終演後、ロビーには立ち去り難くしかしながら発する言葉を奪われた「本土」の人たちがいた。


監督:ジャン・ユンカーマン
配給:シグロ
劇場:岩波ホール
2015年作品


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この記事へのコメント
百田さんの発言…

人気作家に言わせる術。

いつも不平不満顔の沖縄人…イメージ戦略に思えてなりません


いかがでしょうか
Posted by ようこ at 2015年07月03日 15:05
一連の発言は沖縄メディアに対するものの他、広告費云々というメディア全般への「懲らしめ」があったわけで、沖縄人へのイメージ戦略のみを意図したともいえないのではないでしょうか。とはいえなにがしかの政治的意図はあるでしょうね。
Posted by 24wacky at 2015年07月04日 00:29
 
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