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2008年06月23日

沖縄アソシエーショニズムへ その2

国家は政府と違う

NAM時代に書かれた『トランスクリティーク』(2001年)を「緻密に練り直した続編」として書かれた『世界共和国へ』では、国家の暴力について以下のように述べられている。

絶対主義国家の時代は、略取―再分配という交換様式に基づいた独占状態(国家の暴力)は誰の目にも明らかだった。しかし、市民革命以降、国家の主権者は国民であると看做され、その暴力性が見えなくなった。たとえば絶対王政では、王が税を徴収し、それを再分配していたが、現在では国民が自主的に納税をしている。

しかし、そのような見方は、国家を内部だけで考えるものです。国家というものは何よりも、他の国家に対して存在します。だからこそ、国家は内部から見たものとは違ってくるのです。市民革命以降に主流になった社会契約論の見方によれば、国家の意志とは国民の意志であり、選挙を通して政府によってそれが実行されると考えられています。ところが、国家は政府とは別のものであり、国民の意志から独立した意志をもっていると考えるべきです。
(『世界共和国へ』P.113~)


このことを理解するために、柄谷は株式会社を例に出す。大企業では、経営者は社員から選ばれる。経営は社員総意によってなされるかのようにみえるが、実は資本(株主)に拘束される。社員がどう思おうと、経営者は資本の要求、つまり利潤の実現を満たさなければならない。その資本は通常目に見えない、国家が国民に見えないように。しかし、株主が経営者を解任したり企業買収したりすると、はじめて資本があると実感する。同様に、国民が国家の存在を実感するのが戦争においてだ。

国家――政府――国民
資本――経営者――社員


国家と政府を混同している多くの運動体とNAMはなるほど異質である。運動体に限らず、多くの人は両者を混同している。といっても、そのことを理解しているつもりで実は怪しい私のような会員は、当時のNAMには他にもいたはずであるが。

一方、沖縄の反基地運動は日米両政府に対する抵抗運動としてあり続けた。辺野古新基地建設に抗議する次の投書(篠原孝子さん)を読むと、それはいっそうはっきりする。

私たちは日米政府が決めたことだからといって、従う必要があるだろうか。今ある自然を守り環境破壊を止めていかなければならない時代に、世界に誇れる数々のサンゴ群落がありジュゴンがすむ海にわざわざ血税をつぎ込んで新基地を造る計画だ。
これを推進している人たちを見ていると結果的に得をする人に限られているように思う。だからこそ非現実的な計画を現実的というのだし、今飛ぶヘリを減らす努力もせず「普天間」が危険なままでいいのかと脅す。
犠牲を押し付け続ける国の役人が世界平和のことや命の大切さを考えているとは思えない。
(沖縄タイムス投書欄「わたしの主張 あなたの意見」6月1日付「米従属か否か選択すべきだ」より一部転載)

この書き手が批判している「推進している人たち」は可視の存在である。それは様々なかたちで利益を得る地元関係者であり、次の段で具体的に、「犠牲を押し付け続ける国の役人」と名指しされる人たちである。つまり「日米政府」の「犠牲を押し付け続ける国の役人」などが辺野古新基地建設を「推進している」のだと。

沖縄アソシエーショニズムへ その2辺野古の海上、海中での非暴力の抵抗運動に対して、時に暴力的な手段に訴えて作業を強行する現場の作業員たち。そのように生身の抵抗の相手は目の前に多勢で実在する。しかし作業員たちは指示に従い業務を遂行しているにすぎない(と彼らは答えるだろう)。だから本来の相手は、それを指示している「国の役人」であるともいえる。

「押しつけられた常識を覆す 第1回」で我部政明が指摘したように、辺野古の新基地建設が軍事的理由でなく、政治的理由によるものならば、日米政府の政治状況の変化によって、つまり政党・政治家が変わることによって、あるいは役人が刷新されることによって、事態は変わるかもしれない。それはありえないことではない。

しかし仮に辺野古新基地建設が中止されたとしても、それは戦争がなくなるという意味ではない。なぜなら、そのような見方は社会契約論的な見方、つまり国民の意志を政府が代行するという見方に立ってのものであり、柄谷にいわせれば国家が見えていない。国家には、政治家からも役人からも国民からも独立した意志がある。それは膨大な官僚組織と常備軍が形成された絶対主義国家の時代から一貫して存在する。であれば「犠牲を押し付け続ける国の役人が世界平和のことや命の大切さを考えているとは思えない」を言い換えて、そもそも国の役人(官僚)は、常に国民に対し犠牲を押し付け続けるし、世界平和のことも命の大切さも考えない存在である、といったほうがよい。

沖縄の運動にも様々な立場、微妙な主張の違いがある。基地の無い反戦平和、県外撤去、海外移転、日本の差別的政策を批判し国内の平等負担を求めるなどなど。当然現場にも様々な一つでない声がある。篠原さんの意見もそのうちの一つである。まずその一つ一つの声が丁寧に聞き取られるべきなのはいうまでもない。

ただそこで大事なのは、国家と政府は別のものという認識も持つべきだということ。政府を相手にした抵抗運動で辺野古新基地建設を阻止する。しかしそれだけで世界平和は訪れない。だから、同時に国家を相手にした対抗運動を試みる。

辺野古の運動をしている人たちは、自分たちは時間稼ぎをしているだけであり、そうしている間に仲間たちが他のやり方で止めてくれることを期待しているといっている。それに応じて、われわれは国の出先機関に申し入れをしたり、座り込みをしたり、世論喚起を試みたり、県外、海外とのネットワークに働きかけるなどする。これらはみな、即応的で現実的に必要な運動である。

しかし同時に、これらはもぐら叩きゲームである。辺野古を阻止できたとしても、また新しい基地がどこか別の場所に新設されないという保証はない。なぜなら国家とは他の国家によって存在する暴力的なものであり、政府を相手にした運動ではそれは解消されないから。

われわれはもぐら叩きゲームを現実的にせざるを得ない。しかし同時に国家への対抗運動を始めなければならない。それはとてつもなく漸進的なものだ。「そんな悠長なことをいう暇があるか!」と、運動の現場からいわれるかもしれない。だが、国家がなんたるかを知れば、その悠長なことをやる以外に希望はないのだ。


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この記事へのコメント
他の国家に対する関係をも含んだ国家の解明―どんなに「とてつもなく漸進的なもの」であろうとも、そこから手をつけなければ真の解決の糸口はつかめないとぼくも考えています。
「長池講義」では、柄谷氏が『世界共和国へ』以降も粘り強く交換関係を手がかりにその解明を試みています。国家も一つの交換形態にすぎないこと。また、より普遍的な交換関係であると思われる互酬制の内部からは決して国家は生じないこと。先日の第2回目の講義では徹底的に互酬制についての話がなされました。特に注目すべきは互酬的世界を単に歴史的事実として想定するのではなく、さらにはレヴィ=ストロースが批判したところの未開人の思考に沿うこともなくかつまたフロイトが試みたように子供や神経症者から類推することにもよらず現象学的に考察した件でした。ブーバーの提示した〈我と汝〉概念を軸になされた理論的解明は明快で説得力に富んでいると感じられましたよ。
Posted by ゴロー at 2008年06月24日 17:49
交換形式の種類が歴史的事実としてあるということは、だいたい分かったつもりなのですが、交換形式が何を意味するのかが、まだ分かりません。

さらに「徹底的に互酬制について」話をしたということですよね。
関連することかどうか怪しいですが、『NAM原理』『トランスクリティーク』の時点で、「共同体に足をすくわれる」というような言い方で、共同体への評価がそれで終わってしまっているところに、疑問を持っていました。
そのあたりは関係ないのでしょうか?
Posted by 24wacky24wacky at 2008年06月24日 21:38
一番大きく変わったと感じるのは、互酬制を共同体内部の交換形式ととらえていたのを、互酬もいわば共同体と共同体との間の関係ととらえ直した点です。これで資本制や国家と位相は同じになったとぼくは考えています。貨幣による交換システムが資本制経済を形成し、収奪と再配分というシステムが国家を形成し、互酬システムが共同体を形成するというわけです。
共同体内部の道徳は贈与に対してお返しを迫ります。しかし、第2回の講義においては、「ちかた」さんがご自身のmixiのホームで報告されていますが、互酬制とはそのようなものではなく、また資本制において債務の履行が迫られるようなものでもなく、いわば共同体所有、たとえば土地とか財でもX(=神)に属するのだから、そこからもたらされた収穫物は皆で分け合うのが当たり前だ、そういったシステムのことだと話されました。
Posted by ゴロー at 2008年06月25日 00:50
>互酬もいわば共同体と共同体との間の関係ととらえ直した点です。

そんな展開があるのですか。「あっと」もろくに読まなくなっているので、ついていけてませんね。

紹介しているちかたさんの論は興味深いですね。
まったく理論的に把握できているわけではないのですが、取材等で出くわす沖縄の「共同体」をみていくと、贈与に対するお返しだけでは済まされない何かがあって、それはよくいわれるような、「地縁血縁に基づくジメジメした人間関係」というように、ネガティブに帰すだけではいけないだろう、と漠然と捉えています。
Posted by 24wacky24wacky at 2008年06月25日 20:20
ワッキーさんの視点がすぐれているのは、国家は他の国家に対するシステムであるというところを押さえているからですが、共同体も同様で、他の共同体との関係を捨象してしまうと考察がいびつになり、同時にアソシエーションを考察するヒントが狭まってしまうと思います。
なお、すべての交換形態、すなわち、互酬、略取と再分配、資本制、アソシエーションは、どの社会にも存在する、つまり社会を、これらがさまざまな濃度で機能しているような社会構成体ととらえ、どれが優位な交換形態かによって、その社会の特色が決まるという風に考えられるようになっているとも感じています。
Posted by ゴロー at 2008年06月26日 00:37
アソシエーションに含まれる互酬制を考察するときに、共同体と共同体の交換様式を見るということでしょうか。

共同体と共同体の間に貨幣による交換が生まれる(それしかない)、とした認識から大きく変わったということですね。

やっぱり最新の著作も読まねばですが、それやってるとますます書けなくなる・・・
Posted by 24wacky24wacky at 2008年06月26日 01:43
地域通貨Qでも、閉鎖的な共同体とは違った自由な市場が可能だというようなことが謳われましたが、

>たとえば土地とか財でもX(=神)に属するのだから、そこからもたらされた収穫物は皆で分け合うのが当たり前だ、そういったシステムのことだと

すれば、財でもX(=口座)に属するのだから、そこからもたらされた収穫物は皆で分け合うのが当たり前だ、そういったシステムがQの可能性としてあった、とはいえないだろうか?

あの時、資本と国家を揚棄するNAMのツールとしての通貨を、他の「地域通貨」と区別するために、他の「地域通貨」を全部ダメみたいなことをいう人がいましたが(笑)、「地域通貨」をこの文脈での「共同体」とつなげてみると、違った局面があるのではないか?
Posted by 24wacky24wacky at 2008年06月26日 02:02
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