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2008年06月30日

沖縄アソシエーショニズムへ その5

佐藤は、後半のパネル討論の中で、フロアからの質問に答え、民族について次のように述べる。

民族とはあまりいいものではない。200年くらいの近代的な現象です。しかし、それがあたかも千年以上続いているように見えるという、われわれの罹っているウィルスだと思います。ウィルスは生物ではないので殺すことはできない。だからどうやって悪い形で発症させないかを考えないといけない。

佐藤優のいうウィルスとは、『世界共和国へ』で語られるネーションのことに他ならない。 

ベネディクト・アンダーソンは、18世紀西洋におけるネーションの発生を、宗教に代わって個々人に不死性・永遠性を付与し、その存在に意味を与えるものとしてみた。ネーションは共同体が持っていた永続性、つまり死んだ者(先祖)やこれから生まれてくる者(子孫)をも考えるあり方を想像的に回復する。普遍宗教は個人の魂を永遠化するが、共同体の永続性の回復はできない。それを回復するのがネーションである。
『世界共和国へ』を読むためのメモ その25

われわれは通常、紀元前から始まる歴史を教科書から学び、それがリニアなものであると認識する。そこでは日本(人) という概念などたかだか「200年くらいの近代的な現象」であることが忘却されている。ウチナー(ンチュ)についても同じことがいえる。ヤマトゥからの植民地支配という抑圧に抵抗するときに、「ワッター・ウチナーンチュ」というアイデンティティが高揚される。そのときに、その人は、「ワッター・ウチナーンチュ」が「あたかも千年以上続いているように」自らをアイデンティファイする。それが「200年くらいの近代的な現象」であるとは思わずに。

その忘却が高揚し、民族紛争のようなかたちとして現れること(ウィルス)に対して、官僚(外交官)である佐藤は「どうやって悪い形で発症させないかを考えないといけない」といっている。

この態度から分かるように、佐藤はあくまで国家の側の人間である。「(沖縄の)血が騒ぐ」と嘯き、遠隔地ナショナリストとしてアイデンティファイしているような発言もするが、それは沖縄に対するあながちウソではない、しかし確信犯的なリップサービス程度に捉えたほうがよいだろう。

同じように、反戦平和の立場から、佐藤の官僚としての立場を崩さない発言を警戒する者もいるかもしれない。しかしながら彼の発言には、他のパネリストに無い視点、問いかけが含まれる。だから、彼の立ち位置を確認しつつも、同時にそのメッセージを篩いにかけ、イイトコ取りをして運動に生かすべき点は生かすのも手ではないか。

その視点とは何か?佐藤は国家というものがどういうものかを知り尽くしている。それが沖縄側の言説(独立、自己決定権などをいうときの態度)ではあいまいである。それは具体的に、次のような発言を指す。

沖縄は今のところ日本の一部であるため、国家としての暴力を自ら行使するという問題から免れているわけですね。ところが独立国家というものを造っていこうということになると、自分たちの暴力性をどのように位置づけるかということが出てきます。

繰り返しになるが、国家というのは他の国家に対して存在する。一国内で国家を見ているだけでは、その正体は見えない。

長年の日米政府の圧制に苦しまされた主体(沖縄)は、さんざん客体(日米政府)の暴力に晒され続けてきた。だから、それからの解放=独立が実現すれば、無条件で平和な状態が到来する。ウチナーンチュは昔から争いを好まぬ平和な民だったではないか。このような主客の論理を持っている人も多いのではないか。

ところが、独立国家とは、他の国家に対して敵対的に(暴力的に)存在する。その構造ができたのは、集権的国家が形成された絶対主義王政の時代に遡る。絶対主義王政は、略取―再分配という交換様式を独占する。そこで初めて官僚組織と常備軍が組織された。なにより国家の暴力が目に見えた。それが目に見えなくなるのが、市民革命以降の国民主権という考えを通してだ。例えば強制的に徴収していた税金が、国民の側から自主的に納められるというように。そのように国家に従順にしていれば、平時は国家の暴力を見なくてすむ。しかしながら、国民がなにをどう思おうが、良い政治家(相対的にマシな政治家)を選挙で選ぼうが、国家の根底にある暴力は残る。だから「自分たちの暴力性をどのように位置づけるか」の議論は、避けては通れないだろう。

沖縄アソシエーショニズムへ その5


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この記事へのコメント
リアリストとしての佐藤優の真骨頂ですね。沖縄であろうと、
国家として独立すれば、それは暴力装置の独占に他ならないという指摘は、確かにこれまであまりされていないし、盲点でした。
24wackyさんが、ずっと論じてこられた「国家」論、きちんと考えていかないといけないと考えます。ただ、どうも自分は
そうではない「国家」というか、もう、それは「国家」ではないのかもしれないけれど、異なる有り様も可能ではないかと思っています。
とはいえ、政治学者の新川敏光先生が、とある学会において、「インタネットによる国家を超えた連帯を」云々という腰の据わらない議論に対し、「国家はそう簡単に超えられない」と一喝した記憶が鮮明で、「異なる有り様」というものを、もっと詰めて考えねば吹っ飛ばされるなあと。
Posted by まなぶた at 2008年06月30日 22:17
>ただ、どうも自分はそうではない「国家」というか、もう、それは「国家」ではないのかもしれないけれど、異なる有り様も可能ではないかと思っています。

そうです、そうです、もちろんそうです!そのために書いています。私は国家主義者の真逆ですぜ。

柄谷の国家と資本を「揚棄する」理論は、そのために、まず国家とは何か、資本とは何か、それを知らない運動はダメでしょう、というものです。

私はここから5年間遠く離れ、沖縄の運動を見てきましたが、やはり色褪せていなかったのです。

国家、国家といっているのは、当該シンポでの問題点、独立、自己決定権をいうときに避けられないからシツコクいっているわけです。

>「国家」ではないのかもしれないけれど、異なる有り様も可能ではないかと

ここに向かって迂遠な道をダラダラと進んでいきます。まなぶたさんのような方に読んでいただき、貴重なコメントをいただけるのは、お恥ずかしい限りですが、ブログ冥利につきるというもの。

新川敏光先生のエピソードも頷けますね。「インタネットによる国家を超えた連帯」、「草の根のアジア連帯」など私も大好きですが(笑)、もともと分散するべくしてしている少数の運動が連帯するのみでは、資本と国家に対抗できないでしょう(それが不要だという意味ではない)。その連帯を生かすために、無駄にしないために、まずは国家を知る必要があるのです。
Posted by 24wacky24wacky at 2008年06月30日 22:59
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