2009年07月14日

才能を商品化する

「初期のRCサクセションから80年代からのロック・スターとして自己規定した忌野清志郎へのつながり」はSTさんのみならず渋谷陽一にとっても難問であった。
まだ涙がでない 500 Miles
サウンドストリート ゲスト忌野清志郎
1987年3月のインタビューで、キヨシローはその生い立ちについて、かなり詳しく開陳している。この頃には既に渋谷を信頼するようになっていたのだろう。



2枚目のアルバム『楽しい夕べに』以降盛り下がっていく活動、悲惨な日々の生活がある種の達観、厭世観と共に語られ、やがて仲井戸麗一が加わりバンドのスタイルが変わるその時。渋谷はかつてサウンドストリートですかされたその疑問を再びぶつける。そしていよいよその核心が語られる。

●メンバー・チェンジだけでなく、その時点で音楽的な方向性も大幅に変わるわけですよね?

「そうですね、それまでの時期というのは世間に認められようが何しようが、自分の感覚的なものをですね、表現しようと思ってたの。でも結局それがよくないんじゃないかと思って、やっぱもっと分かりやすい単純なリズムでやったほうがいいんじゃないかと、ストーンズを研究したわけよ、ついに(笑)・・・・『シングル・マン』までは凄い真面目に取り組んでいたんだよね、自分に対して、でもそれじゃいけないと思って(笑)、もっと一般受けするようにハデなことしなきゃ売れないんだと思ったんだよね。いくらいい才能を持っていても」

●そういうもの凄い認識の転換というのは何をきっかけにして起こったんですか。

「それはあの・・・・その時期に結婚しようと思ったのね。そしたら、相手の親父が怒鳴り込んできてさ(笑)、『何だお前は!』みたいな感じで怒られて。ちきしょう、これで売れてりゃ何でもないのになと思ってさ。それで考え直したの、売れなきゃいけない、自分の才能をもっと商品化しなきゃいけないんだって」

キヨシローとチャボの「研究」はストーンズのみならず、キッスやセックス・ピストルズなど見境が無い。そのようにして《おいらは~だぜ》《愛し合ってるかい?》など『RHAPSODY』のスタイルが確立されていく。

ところで商品化というのはレコード会社や所属事務所によって「プロデュース」されるのが常である。この頃のRCには既にその商品価値さえないと見放されていたのだろう。そのことが幸いした。

しかし注視しなければならないのはそのことではない。《売れなきゃいけない》と自らを省みて「研究」した結果が、新たなる才能の噴出だったという事実に我々は驚くべきである。

オイラのRCベスト・アルバムはなんといっても『シングル・マン』である。『シングル・マン』も聴かずにキヨシローについてオイラと何か語ろうなどという輩とはつきあいたくない。

しかし同時に『RHAPSODY』の冒頭“よぉーこそ”の出だしこそRCサクセションだという思いにも揺るぎが無い。自分も含めてあの頃のRCファンたちはその両極の振幅を、矛盾を、わけも分からずしかし確信を込めて支持していたのだ。あの頃はそんな2つとないグジュグジュでインモラルで圧倒的な数年間だったのだ。



同じカテゴリー(今日は一日本を読んで暮らした)の記事
2019年 本ベスト10
2019年 本ベスト10(2019-12-23 21:08)


 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。