てぃーだブログ › 「癒しの島」から「冷やしの島」へ › 今日は一日本を読んで暮らした › 『キャラクター小説の作り方』

2016年09月13日

『キャラクター小説の作り方』

『キャラクター小説の作り方』

 絵画にせよ小説にせよ、現実をなるべく忠実に再現しようという考え方(リアリズム)が自然主義であるとすれば、日本の小説の大半は文学からエンターテイメントまでこの手法に基づいて書かれているといえる。その例外が「スニーカー文庫のような小説」である。「スニーカー文庫のような小説」とはアニメやまんがの絵を「お手本」にした小説のことで、カバーにまんが家やアニメーターたちが描いたイラストが採用され、書店ではコーナーが区分けされている。それはこれらの小説が現実の原理原則ではなく、アニメやまんがが内包する仮想現実に従って書かれているということを暗黙に示している。それは自然主義文学の一つである私小説の「私」のように作者を反映したものではなく、あくまで「キャラクター」という生身ではないところの「私」が宿っている。著者はそれを「キャラクター小説」と呼ぶ。このようにおよそ相容れない両者であるが、著者は自然主義文学からキャラクー小説を、キャラクター小説から自然主義文学を批判しつつ、キャラクター小説の潜在的な可能性を示す。

 アニメ、まんが、ゲーム、そしてジュニア小説といった業界では「世界観」という言葉が使われる。それは作中のキャラクターが世界をどのように観て、受けとめるかを意味する。キャラクター作りにおいて不可欠であるにもかかわらず、しばしばその重要性が理解されていないことに著者は苛立ちを隠さない。《架空の「世界」を読者にリアルに感じさせるには、その「世界」に根差した物の見方や行動するキャラクターが不可欠ですし、逆にキャラクターをリアルに表現するには作者が生きている現実の「世界」ではなく、架空の「世界」との関わりの中で表現しなくてはいけないのです》。両者は互いに関連しあっているのだ。

 〈第五講 キャラクターは「壊れ易い人間」であり得るか〉は本書のなかで著者の倫理観が突出している。晩年の手塚治虫は、自分の絵は記号的な表現形式をとっているので生身の肉体を表現することはできないと告白した。国民的まんが家が戦時下でまだ10代だった頃に描いた『勝利の日まで』という作品がある。そこでは、銃弾が飛び交っても爆弾が投下されても、包帯や煤けた顔やタンコブといった表現でキャラクターは傷つくだけ、つまり記号的である。人の死をリアルに描かないのだ。コマ割りや構成が当時の戦争翼賛まんがの形式を正確に踏襲しているこの習作に、しかしながら手塚は作品終盤、主人公のキャラクターが戦闘機に撃たれ、血を流しのけぞるリアルなシーンを数コマ描いている。著者はこの部分に注目し、次のように評価する。まんがというジャンルが戦争や人の死を描くのに適さないということに自覚的であり、それにもかかわらず、それらを自分の表現の対象とすることに背を向けなかった。それはリアリズムの手法でしか描けないことをリアリズムの対極にある記号的な手法で描こうとする努力といえるし、日本の戦後まんが史はその姿勢を踏襲してきたはずだ、と。

 さらにここからキャラクター小説と(自然主義)文学双方に厳しい眼差しを向ける。

 けれども、このような矛盾に作者が自覚的であることは「まんが」や「まんがのような小説」の一つの責任だとぼくは考えます。もう一度、言います。責任です。そしてぼくたちが見逃してならないのは、こういった問いかけが、すなわちキャラクターに血を流させることの意味を小説がいかに回復できるのか、ということが実はキャラクター小説とは本来、異質であるはずのこの国の「文学」の最大の問題としてたった今、あるからです。
(137ページ)


この批判はイデオロギーに代わって物語が支配する現在の社会に向けてもいい得るのではないか。
 
『キャラクター小説の作り方』
著者:大塚英志
発行所:星海社
発行:2013年10月24日


関連記事:
『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』その1
『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』その2
『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』その3
『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』



同じカテゴリー(今日は一日本を読んで暮らした)の記事
2019年 本ベスト10
2019年 本ベスト10(2019-12-23 21:08)


 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。