てぃーだブログ › 「癒しの島」から「冷やしの島」へ › 今日は一日本を読んで暮らした › 『千のプラトー 資本主義と分裂症 上・中・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ

2018年05月20日

『千のプラトー 資本主義と分裂症 上・中・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ

『千のプラトー 資本主義と分裂症 上・中・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ

 冒頭からリゾームという言葉のイメージの噴出に息が切れそうになる。リゾームとは樹木やその根とは違い点と点を連結する線からなる。それは極限として逃走線や脱領土化線となる。樹木は血統であるが、リゾームは同盟である。リゾームは多様体である。リゾームは生成変化である。リゾームとは定住性ではなく遊牧性である。リゾームには始まりも終わりもなく、いつも中間である。

 多様体と生成変化については以下の記述でやや理解が進んだ。サルヴァドール・ダリの精神錯乱の再現について。ダリが犀の角について長々と語るのは神経症的言説からはみ出さないものだといえるが、皮膚にできた鳥肌を犀の小さな角の局部に比べ始めると事態は一変、狂気の中に踏み込む。それを精神病患者にだけ可能な、生成変化する多様体であると著者はいう。《小さな水泡は角に「なり」、角は小さなペニスに「なる」》(上巻66ページ)。これに対しフロイトは、モル的な統一性に戻り、おなじみの定冠詞つきの父、ペニス、腟、去勢などを見出してしまう。リゾームを発見する手前で、フロイトはいつも単純な根に戻るしかない。

 さて、いよいよ大部をなす本書のまさしく「ただなか」だと私にとって思われる箇所、女性への生成変化、女性に「なる」ということ。マジョリティがマイノリティに「なる」ということ。著者はこれらの二元論に、男性=マジョリティ=主体、女性=マイノリティ=媒体と配置する。注意したいのは、「女性」や「マイノリティ」が一般的にイメージされる「状態」ではないということである。だから男性が女性に「なる」ことはもとより、女性が女性に「なる」ことも避けられない。いや、男性が女性に「なる」ためには、女性が女性に「なる」ことが不可欠である。マジョリティがマイノリティに「なる」ためにはマイノリティがマイノリティに「なる」ことが必須であるように。主体と媒体の位置づけとはそのような意味においてなされる(中巻「10章 強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」)。

 そして下巻ともなれば、遊牧民が発明した「戦争機械」(「戦争」そのものとは異なる)が国家を危機に陥れようとする。だが「国家装置」はそれを捕獲し、労働を発明し、資本主義に資するようにする。さらに「平滑空間」と「条里空間」の対立は錯綜を繰り返す。平滑なものとは垂直線と水平線とを横切る斜線の純粋な軌跡であるという記述には想像力を刺激されるが、同時に読む私の交感神経はガチガチに固まってしまう。少しだけ救われるのは以下のような馴染みのある文学への参照があるところである。《たとえば、クリシーやブルックリンでのヘンリー・ミラーの散歩は平滑空間での遊牧的移動であり、ミラーは都市が一つのパッチワーク、速度の微分、遅滞と加速、方向転換、連続変化を吐き出すように促すのだ》(下巻263ページ)。そうだ、ミラーに再会しよう。

『千のプラトー 資本主義と分裂症 上・中・下』
著者:ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
発行:河出文庫
発行年月:2010年10月20日


2018/04/09
『享楽社会論 現代ラカン派の展開』松本卓也
 精神分析を可能にした条件とは、近代精神医学が依拠した人間の狂気(非理性)とのあいだの関係を、言語と、言語の限界としての「表象不可能なもの」の裂け目というパラダイムによって捉え直すことであった。1950〜60年代のラカンの仕事は、フロイトが発見した無意識の二重構造を、超越論的システムとして次のように…

2018/03/21
『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
  『アンチ・オイディプス』は、「欲望機械」「器官なき身体」「分裂分析」「接続と切断」といった言葉の発明をもとに、無意識論、欲望論、精神病理論、身体論、家族論、国家論、世界史論、資本論、記号論、権力論など様々な領域へ思考を横断していくところに最大の特徴がある。「あとがき」で翻訳者の宇野邦一は、…

2018/02/18
『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』佐藤嘉幸 廣瀬純
 ドゥルーズ=ガタリ連名による著作『アンチ・オイディプス』(1972年)、『千のプラトー』(1980年)、『哲学とは何か』(1991年)は、いずれも資本主義打倒のための書である。三作は利害の闘争から欲望の闘争へという戦略(ストラテジー)において共通するが、戦術(タクティクス)が各々で異なる。『アンチ・オイ…

2018/01/03
切断、再接続、逃走、闘争
 朝日新聞の興味深い新年特集記事「逃走闘争2018」で、『逃走論』(1984年)の著者浅田彰は述べている。重厚長大型から軽薄短小型への変化がある一方で、古い価値観やイデオロギーに固執する人々も相変わらず多いという当時の社会状況に対し、資本主義を半ば肯定しつつ、パラノ(偏執)的な鋳型を捨てて、スキゾ的(…

2018/01/02
「健康としての狂気とは何か━ドゥルーズ試論」松本卓也
今もっとも注目する松本卓也論考の概要。 ドゥルーズは「健康としての狂気」に導かれている。その導き手として真っ先に挙げられるのが、『意味の論理学』(1969年)におけるアントナン・アルトーとルイス・キャロルであろう。アルトーが統合失調症であるのに対し、キャロルを自閉症スペクトラム(アスペルガー症…

2017/01/05
『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也
 本書は、ドゥルーズとガタリやデリダといったポスト構造主義の思想家からすでに乗り越えられたとみなされる、哲学者で精神科医のラカンのテキストを読み直す試みとしてある。その核心点は「神経症と精神病の鑑別診断」である。ラカンは、フロイトの鑑別診断論を体系化しながら、神経症ではエディプスコンプレクスが…

2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…

2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…




同じカテゴリー(今日は一日本を読んで暮らした)の記事
2019年 本ベスト10
2019年 本ベスト10(2019-12-23 21:08)


 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。