2010年03月28日

「沖縄論」を論ずる

第454回沖縄大学教養講座「沖縄論」を論ずるに参加した。1週間前に東京で行われた「普天間―いま日本の選択を考える」の沖縄版といったところか。以下、簡単な備忘録を記す。

「沖縄論」を論ずる

東京のシンポと比較するとその相違点が興味深い。東京では宮本憲一氏呼びかけの本土知識人が中心となり、沖縄への基地押し付けに対する責任感といったものが強い動機付けになっていた。沖縄から馳せ参じた桜井、佐藤両氏からも本土出身者としての使命感という切迫した物腰が感じられた。

一方、今回は壇上もフロアも沖縄メインということで、肩肘張ったところもなく、「自然」だった(ことの「気楽さ」が前者をみるにつけ感じられる)。もちろん「気楽さ」と表現したのはとても肯定的な意味である。自分もその一部であるというささやかな喜びも含めて。

シンポ全体をユニークなものにしたのが、ただ一人、アカデミズムでないところの、いわば異物としての宮城康博氏に問題提起というポジションを委ねた点であろう。氏がそれぞれのパネリストに問題提起を仕向けるという批判的議論の交換は功を奏した。司会の川瀬氏をはじめ、パネリストたちもその意義を了解し、時間配分も考えず自説を延々述べるというようなトンデモな振る舞いもなかった。もっともこんなやり取りを本土でやったとしても、みなチンプンカンプンだろうが。

さらにいえば、沖縄のシンポは質疑応答部分がとても中身が濃い。参加者の民度が高く、フラットな「応答」が可能となる。

さて、全体の議論は大きく分けて、環境についてと振興策についてなされた。

桜井国俊氏は、辺野古アセスは断じてアセスでないという。その一番の理由は、アセスの対象となる事業内容が予測の前提となる程度に明らかにされていないことにつきる。だから、辺野古陸上案にしても勝連沖案にしてもまともなアセスになるはずがないという悪い予想がつき、そうならないよう適切なアセスを事業者に行わせることが不可欠だと結論付ける。

これに対し、宮城氏は地位協定3条がある限り、環境アセスは適用されないのではないかと疑問を呈す。桜井氏はその通りだとあっさり認めた。

この点に関し、宮本憲一氏は最後の締めでこう述べた。アセス法が形骸化されていることの裁判を起こすべきではないか。「こんなにデタラメなのだ」ということを周知させるための。

私にはこの議論は興味深かった。環境それ自体を争点にするということではなく、それについての法の不在を訴えるという政治的なアクションとして行使せよという意味づけなのだから。つまり、もはや法=理性の不在を学者自ら認めざるを得ず、いわば「自然状態」が顕わになってしまっているのだ。この地点まで議論を引き出した宮城氏の問題提起は評価されるべきだ。

宮城氏はさらに「沖縄振興計画」について問題提起する。2011年にはポスト三次振計であった「沖縄振興計画」が終わる。ここにきて民主党政権は「県内移設」をちらつかせている。振興策が終わることの不安を抱える沖縄の生活者が出るだろうし、そのことによりいったん基地を拒否した市民から「変節」が起こることはありえる。そうならないためにも、その不安を払拭するようなポスト沖振計を見据える必要があるのではないか?

これに対し、沖縄振興開発体制を基地問題の非争点化と位置づける島袋純氏は概ね以下のように答えた。沖縄では振計の結果(効果)がチェックされていない。自民党から共産党まで振興策ありきでこれまできた。振計をなくそうという首長は一人もいないだろう。このように沖縄側がさらなる振計を期待することは、中央にとって都合が良い。そこから脱却して、ハコモノばかりにカネをかけるのではなく、人と人との繋がり、ネットワークなどにお金を使うべきではないか。

議論のあいだ、私の脳内では次のような思考のカスがとりとめもなくグルグルと低回していた。理性の不在、「自然状態」に対抗する原理とは?基地と経済(振興策)という交換からもう一つの交換原理へ。分配的正義から交換的正義へ・・・


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この記事へのコメント
とても興味深いです。なるほど、理性が構造的に黙殺されている以上、理性によって理性の不在を乗り越えるのには戦略が必要なわけですね。一方では、理性を遥かに上回るほど歪に肥大化した感性なるものは、刺激されるのを待ち構えているように思いますが、これを如何に使うか、といえば身も蓋もないですか。
Posted by 齊藤 at 2010年03月28日 00:25
最初の発言は4分という決まりだったから、4分で喋ったら、みーんな勝手に長く話すので、私は間抜けに見えたことでしょう。焦点が環境と振興体制だったので、私の担当章である「米軍再編と沖縄」は外れていて、後からも話す機会がなく、個人的にはやや残念でした。振興体制について、色々言いたいことはあったんですけどね。

でも、当事者が言うのもなんですが、もっぱら聴いている立場から、非常に議論が噛み合った、中身のあるシンポジウムになったと思います。康博さんに討論者をお願いした身としては、非常に有効な議論を展開して貰えて、本当に良かったなあと感謝しています。

ただ今、宮本憲一先生の、研究者として、教育者としての「凄さ」を、改めて感じているところです。

2つのシンポジウムを取り上げて下さり、心からお礼申し上げます。ありがとうございました。
Posted by まなぶた at 2010年03月28日 07:45
>齊藤さん

とりとめのない断片を的確にまとめてくださいました(笑)。

>理性を遥かに上回るほど歪に肥大化した感性なるものは、刺激されるのを待ち構えているように思いますが、これを如何に使うか

これは日本人の現状みたいなことを指しているのでしょうか。とても興味深いので、補足説明があると助かります。

沖縄の状況にあてはめると、基地を容認するにせよ反対するにせよ、基地問題の非争点化により主体性を喪失した少なくはない人たちの感性の鈍磨に対し、どのような交換芸理を創造できるかに興味があります。
Posted by 24wacky at 2010年03月28日 11:52
>まなぶたさん

まずはお疲れ様でした。

時間配分については、宮本講演を30分にして(結局時間オーバーでしたが)残りの各自が持ち時間を守れば、さらに興味深い議論が展開していたことでしょう。確信犯的にオーバーしている人よりも、意識していない人はちょっといただけないですね。ふだん話すことを生業にしているのだから。最も守っていたのが、康博さんとまなぶたさんでしたね。

康博さんが誰それに問題提起をして、それを守備範囲の広いまなぶたさんがさらに発展させる、というような流れになっていたら尚良かったのに。

宮本先生の「凄さ」を感じるのは同業者ならではの感覚なのでしょうね。講演内容自体は、沖縄で新聞を読み、関連本、シンポなどで情報を得ている者からすれば、なんら新しいこともなく、総花的な印象を持ちました。しかし、最後の締めで議論の展開を何事もなく斟酌し、スパッと的を射る発言は、目立ちませんが、いや一見目立たないだけに、やっぱり凄いなあなどと漫然と思いました。
Posted by 24wacky at 2010年03月28日 12:09
曖昧に書いてしまいました。理性も含めてレセプターとしての資格を欠くような感性の鈍磨、と言ったときの「感性」とは別に、極めて狭いセンチメンタリズムの「感性」のつもりでした。たとえば、拉致問題の受容は後者だと思うわけです(歴史や加害の事実には眼をつむり、「かわいそうだ」という一点だけで非理性と化す)。
それでは、「沖縄の人たちがかわいそうだ」といった「感性」が、(それが狭いかどうか・正当かどうかは置いておいて) なぜ過剰反応として広がらないのだろう、と思いました。これをNIMBY問題に押し込めることができているとしたら、よほど(広い意味での)「感性」の鈍磨ですよね。
Posted by 齊藤 at 2010年03月28日 22:45
なるほど。拉致問題の「かわいそう」がメディアによって創られたものであるのに対して、沖縄の人たちがかわいそう」はメディアが創ろうとしないという面があるような気がします。ではその違いは何か?沖縄差別だ、と片付けてしまう前に、もう少し吟味する必要があるかもしれません。
Posted by 24wacky at 2010年03月28日 23:21
宮本先生の「凄さ」は、40年近く、振興体制の問題を、一貫してぶれずに批判されてきた点にあります。また、発言する時間がなかったので会場では言えませんでしたが、「市町村総合計画は、課題発見・問題解決の手段でなければならない」「それを市民が作り、その採否も市民が決める」という、今、島袋さんが懸命に実践を広めている考えを、実に1973年の著作『地域開発はこれでよいか』で展開されています。

今なされている議論の幾つかの種は、確実に宮本先生が蒔かれたものなのです。
Posted by まなぶた at 2010年03月29日 10:32
24wackyさん
シンポジウムの紹介ありがとうございます。
気心の知れたメンバーだったので「異物」も余計な萎縮もせずリラックスして「場」を楽しめました。
打ち合わせもなしで、川瀬さんと隣同士でちょこっと話しただけで進行しましたが、なんだか以心伝心で楽しかったです。
24wackyさんが会場にいらっしゃったのなら、お姿を拝見したかったです。(これだけが心残り^^)

学さんが書かれている「自治」の武器/手段としての総合計画について、名護市の「逆格差論」(1973)を素材に考察したいと思っているのですが、日々の暮らしに追われ遅々として進まず忸怩たる思いをしています。
Posted by nagonagu at 2010年03月29日 11:21
>まなぶたさん

沖縄に来る前に読んだ『沖縄 21世紀の挑戦』は当時刺激的でした。

40年近いぶれない批判はその都度どのような反応をもたらしたのかもたらさなかったのか。
Posted by 24wacky at 2010年03月29日 16:44
>nagonaguさん

こちらこそコメントありがとうございます&「異物」発言、失礼しました。

川瀬さんとの即興演奏のストラットぶりは観る側にも伝わってきました。川瀬さんもアカデミズムからややはみ出して生き生きしていましたね。

会場で声をおかけしようかとも思ったのですが、結局しませんでした・・・グッッスン

日々の暮らしに追われているのはこちらも同じです。なんとか脱却できないものでしょうか。そのような状況で「逆格差論」を考察するのだから、それ自体が自分(たち)の崖っぷちの実践になるのかもしれませんね。
Posted by 24wacky at 2010年03月29日 17:09
 
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