てぃーだブログ › 「癒しの島」から「冷やしの島」へ

2008年06月05日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その30

3 軽視された国家

マルクスは、国家によってアソシエーション(生産者協同組合)を育成するというラッサールの考えを批判した。国家によって育成するのでなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって替わるべきだと。しかし、国家の補助がなければ、生産者協同組合は資本制企業に敗れてしまう。そこでマルクスは、プロレタリアートが国家権力を握ることが不可欠だと考えた。一方、国家は消滅すべきだとも考えた。だからマルクスはプルードン派だ。



4 アソシエーショニズムのために

国家を内部だけから見ることは間違っている。封建的君主制では、主権は外部に対して存在しただけで、内部では存在しなかった。絶対王政になって、王は初めて外的かつ内的主権者となった。しかし絶対王権が倒されると、人々は主権がまず外部にあることを忘れてしまった。国家を内部だけで揚棄できるとい考え(プルードンもそうだ)は、そこから出てきた。

またプルードンは、経済においても「貨幣の王権」を廃棄すべきだと主張したが、これも国家の問題と同じで、貨幣を一国内で通用する貨幣と見ていた。しかし、貨幣の超越性は、国家の外で通用することにある。一国や一地域だけであれば、確かに貨幣は不要であり、代替貨幣で十分かもしれない。だが国際的な交易となると、貨幣無しにはすまない。


プルードンは資本主義に関する見方が甘かった。プルードンの唱えた協同組合が対抗できたのは、産業資本そのものが弱かった時代だけで、1860年以降、巨大資本による重工業的生産に移行したとき、もはや対抗できなかった。

一方マルクスは、国家に関する見方が甘かった。マルクスはつねに、商品交換が「共同体と共同体の間」で生まれることを強調したが、国家もまた同じであることを軽視した。商品交換がどんなに浸透したからといって、略取―再分配は消滅しない。ところがマルクスは、世界資本主義が浸透すれば、国家も事実上解消するだろうと考えた。
  

2008年06月05日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その29

2 プルードンの構想

プルードンは社会主義を平等や友愛からではなく、「自由」に基づいて築こうとした。第一に、経済的平等より自由を優先した。そしてなにより分配的正義に反対した。それは国家による再分配に行き着き、国家権力強化に繋がるから。自由を優先したプルードンは、「交換的正義」、つまり富の格差を生み出さないような交換システムを唱えた。
 
第二に、「自由」を「友愛」より優先させた。「友愛」を基盤に社会を変えようとする者は、ほぼまちがいなく国家に向かう。友愛は個人の犠牲を引き出す。国家的な強制は、しばしば友愛によって弁護あるいは強化される。

プルードンは私有に反対し、同時に社会主義者が唱える共有(国有)にも反対した。そのどちらでもない形態が互酬制である。それは共同体の互酬とは違い、市場的交換に似ていて、競争があり自由がある。それにもかかわらず、貧富の差や資本―賃労働の対立があってはならない。それは具体的にどのようなシステムか?

第一に、生産協同組合。全員が労働者であり経営者であることによって、賃労働(労働力商品)がない。第二に、代替貨幣・信用銀行の創出。プルードンによれば、真の民主主義は、政治的レベルのみならず、経済的レベルでも実現されなければならない。

つまり、国家と資本主義市場経済から自立したネットワーク空間を形成すること。



「自由」に基づき私有にも国有にも反対するという態度が驚異的である。川満信一の「琉球共和社会憲法」は私有廃止=共有である。このあたりも後で書きたい。  

2008年06月04日

星になったのさ

星になったのさ
Bo Diddley も
どんとも

  
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2008年06月03日

追悼 Bo Diddleyといえば

BOという名前をつけてバンドを組んでいた彼
これからは好きなだけあっちでセッションできるんだな

  
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2008年06月03日

追悼 Bo Diddley

ボ・ディドリーさん死去 ロックンロールの始祖

窓の外は雨、ジャングル・サウンドで夜を越そう。

  
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2008年06月03日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その28

4章 アソシエーショニズム


1 カントの構想

アソシエーショニズムは、商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬制を高次元で取り返そうとする運動です。それは先にのべたように、自由の互酬制(相互性)を実現するものです。つまり、カント的にいえば、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」ような社会を実現することです。重要なのは、カントがこのような考えを普遍宗教の「批判」を通して得たということです。

自由の互酬制は普遍宗教として開示されたが、それが宗教というかたちをとる限り、教会=国家的システムに回収されてしまう。アソシエーショニズムを実現するためには、宗教を否定しなければならないが、そうすると、そもそも宗教としてしか開示されなかった「倫理」を失ってしまう。

カントはその矛盾を解消しようとした。第一に、教会=国家的な形態をとった宗教の否定。第二に、自由の相互性を開示する限りの宗教を承認。後者にもとづいて、「世界市民的な道徳的共同体」が実現されれば「神の国」(アウグスティヌス)が実現されるとした。

そこで具体的にカントが考えたのは、第一に、商人資本の支配を斥けた小生産者たちのアソシエーションだったが、もちろんこれには歴史的な限界がある。しかしその核心は、再分配によって富の格差を解消することではなく、冨の格差が生じないようなシステムを実現することにあった。

第二に、諸国家が主権を譲渡することによって成立する世界共和国、いわば「神の国」の実現。カントは「永遠平和」を実現するために国際連合を提唱した。これはたんなる平和論ではなく、資本と国家を揚棄する過程の第一歩である。

ここでカントのいう理性の統制的使用と構成的使用について説明しよう。理性を構成的に使用するとは、例えば理性に基づいて社会を暴力的に作り変えるような場合をいう。一方、理性を統制的に使用するとは、「無限に遠いものであろうと、人がそれに近づこうと務めるような場合」をいう。世界共和国は後者のケース。

カントによれば、統制的理念は仮象(幻想)である。でもそれは、そのような仮象がなければ生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」である。統制的理念は、決して達成されるものではないがゆえに、たえず現状に対する批判としてありつづける。



「再分配によって富の格差を解消することではなく、冨の格差が生じないようなシステムを実現すること」という点がユニークである。人々は冨の格差を再分配によって解消しようとするが失敗した国家社会主義を否定するところで思考が終わっているのだから。  

2008年06月03日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その27

4 美学と想像力

「感情」が哲学的な意味で議論されたのは18世紀ドイツにおいてである。感情によって知的認識や道徳的判断が可能になるだけでなく、ある意味で悟性や理性を超えた能力があるという主張、それがエステティク(aesthetics)と呼ばれる。本来感性論という意味だが、ほとんど美に関する学という意味で理解されるようになった。それにカントは反対した。

カントは、バウムガルテンが感性あるいは感情に理性を見出したことに対して異を唱えた。カントは『純粋理性批判』において、感性と悟性、「感じられたもの」と「考えられたもの」を区別することを貫いた。そしてその2つは、想像力によって綜合されると考えた。それをいいかえると、感性と悟性は想像的にしか綜合されないということだ。




5 ボロメオの環

悟性と感性の分裂とは、「ひとが自分でそう考えているのとは違った在り方を現にしているということ」。例えば、資本制社会では誰もが平等であると考えられているが、実際はそうでない。その分裂を想像力で超えようとするのが文学である。

ネーションもそのような「想像的」な共同体なのだ。つまり、現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填・解消される。ネーションは、国家と資本主義経済という異なる交換原理に立つものを想像的に綜合する。要するに、資本=ネーション=国家は、市民社会=市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)で結ばれているということ。これはボロメオの環といえる。それはどれか一つをとると壊れてしまう。
  

2008年06月02日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その26

3 想像力としてのネーション

18世紀後半のヨーロッパにおいて、「想像の共同体」が形成されただけでなく、「想像力」そのものが特殊な意義をおびて出現した。カントは想像力を、感性と知性を媒介するもの、あるいは知性を先取りする創造的能力として見出した。さらに、そのカントに習ってロマン派詩人・批評家コールリッジは、空想(fancy)と想像力(imagination)を区別した。

ネーションの感情が形成されることと、想像力の地位が高まることは平行している。このことが哲学の歴史において最も早く現れたのは、資本主義的経済が発達したイギリス、特にスコットランドにおいてだった。すなわち、哲学者ハチソンがいった道徳感情(moral sentiment)。面白いのはハチソンの弟子アダム・スミスが道徳感情について論じるとき、共感=同情(sympathy)という言葉を使っているところ。この2つは微妙だが決定的な差異がある。ハチソンの道徳感情は、利己心に対立するのに対し、スミスの共感は、利己心と両立する。

アダム・スミスは、各人が利己的に利益を追求することが結果的に全体の福利(welfare)を増大させる、だから、レッセ・フェール(自由放任)でやるべきだと主張した経済学者だ。だけれども、スミスが利己心を肯定し、同情を説いたことは、特に矛盾することではない。それは憐憫や慈悲とは違う。「スミスがいう共感は、利己心が肯定されるような状況、つまり資本主義的市場経済においてはじめて出現する」。共感は、共同体にあった互酬制を取り戻そうとするものだが、共同体には存在しない。


英文学史において、コールリッジに先駆け想像力の位置を高めたのがウイリアム・ブレイクである。この詩人・(版)画家は「想像力は神だ」(Imagination is God.)とまでいった。ブレイクの研究者アードマンは彼を「帝国に反逆する預言者」(Profhet against The Empire)と呼んだ。ブレイクのいう想像力がどのような交換様式に基づくのか?そんな課題が私に追加される。

18世紀の「感情」については英文学者冨山太佳夫の刺激的な研究を講義で聴いたことがあったが、詳細は忘れてしまった。情けない。



  

2008年06月02日

琉球オルタネイト2

早くも2回目。
会場最年長を目指して行ったるか!

覚醒ORG presents琉球オルタネイト2

既存のシーンや括りに捕らわれず、「沖縄独自の別のやり方」をテーマに挙げた「琉球オルタネイト」第二回が開催決定!覚醒ORG主宰カクマクシャカはもちろん、ポニーテールリボン(S)、Fumit-O、福田八直幸ら第一回目のインパクトをそのまま引き継ぐ出演者に加え、 今回は音楽だけでなく写真や映像などでもアート活動も活発な3×4=自由に、BLEACHのカンナ参加の劇団カンジャ、DUTY FREE SHOPP.×カクマクシャカでCDをリリースし話題となったプランクパピィらが出演します。さらにDJタイムはトクメイキボウ、吉岡千絵さんによる参加型インスタレーションの展示もアリ!

【日時】2008年6月7日(土) open&start 19:00
【場所】沖縄市泡瀬Humming bird M
【出演】カクマクシャカ、Fumit-0、福田八直幸、トクメイキボウ、ポニーテール・リボン(S)、3×4=自由に、劇団カンジャ、プランクパピィ、吉岡千絵
【料金】前売り1.000円、当日1.300円(ドリンク別途)
予約はmail@kakumakushaka.comに御名前とイベント名をお忘れなく!
【問】http://kakumakushaka.com
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3130994

琉球オルタネイト第一回レポート
http://kakumakushaka.com/archives/2008/000934.php

覚醒ORGコミュ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3130994
  

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2008年06月02日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その25

2 共同体の想像的回復

ネーションが成立するには、個々人の自由・平等の他に「友愛」という言葉で現される感情が必要だ。感情といっても、問題を心理学的に還元することではなく、「感情というかたちでしか意識されない『交換』を見ることを意味する」。
 
ベネディクト・アンダーソンは、18世紀西洋におけるネーションの発生を、宗教に代わって個々人に不死性・永遠性を付与し、その存在に意味を与えるものとしてみた。

ネーションは共同体が持っていた永続性、つまり死んだ者(先祖)やこれから生まれてくる者(子孫)をも考えるあり方を想像的に回復する。普遍宗教は個人の魂を永遠化するが、共同体の永続性の回復はできない。それを回復するのがネーションである。

しかしネーションは、経済や政治とは別の精神的な問題というわけではなく、商品経済の交換とは違い、互酬的交換に根ざしたものというべきである。



ネーションとしてのウチナー(ンチュ)。友愛としてのイチャリバチョーデー。想像的に回復される平良とみの沖縄オバー。  

2008年06月01日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その24

3章 ネーション


1 ネーションの誕生

ネーション=ステート(国民国家)は、世界資本主義が世界帝国を解体していく過程で生じたシステムである。それを見るためには、先の世界帝国のことを知っていく必要がある。ネーション=ステートはまったくの白紙から生まれたわけではなく、世界帝国という「地」の上に生まれた。世界帝国で多数の民族がいても対立がなかったのは、世界帝国が支配下にある部族的な国家・共同体に干渉することなく全体を統治していたから。

西ヨーロッパで帝国の分解がはっきりするのは、絶対主義国家の成立においてである。つまり、王が市民(ブルジョア)と結託して、封建諸侯を制圧し、主権者となることによって。そしてそれは貨幣経済の浸透の結果でもある。

もちろん、絶対主義国家の段階はまだネーション=ステートではない。それが生まれるのは、市民革命によって絶対主権者が倒され、人民主権が成立する段階だ。でもネーションの基盤が作られるのは、絶対主義王権の時代である。このことは忘れられがちで、まるで人民が王政から主権を取り返したかのようにみなされるが、実は人民は絶対的主権者の臣下として形成されたものだ。「つまり、それまでさまざまな身分や集団に属していた人たちが、主権者の下で臣下として同一の地位におかれたときに、はじめて人民となった」。そしてこれは西ヨーロッパに限ったことではない。

同時にそれはさまざまな共同体を解体させる。逆にいうと共同体が濃厚に残っていると、ネーションの形成は難しい。



ネーション=ステート(国民国家)は、世界資本主義が世界帝国を解体していく過程で生じたシステムである。それを見るためには、先の世界帝国(グスク時代)のことを知っていく必要がある。ネーション=ステートはまったくの白紙から生まれたわけではなく、世界帝国という「地」の上に生まれた。世界帝国(中国)で多数の民族(沖縄その他)がいても対立がなかったのは、世界帝国が支配下にある部族的な国家・共同体に干渉することなく全体を統治していたから。と設定してみてみる。

「共同体が濃厚に残っていると、ネーションの形成は難しい」とすると、離島で起きた「集団自決」(強制集団死)はどのように理解すればよいか?
  

2008年06月01日

キンザー沖アセスに関する情報整理その6

5月20日に出された知事意見


本日の沖縄タイムスより関連記事2つ。

浦添臨港道路橋梁式へ変更

市公社、国に説明へ

【浦添】臨港道路(浦添線)整備のため米軍キャンプ・キンザー(牧港補給地区)沖合約二十二㌶を埋め立てる計画で、事業者の浦添市土地開発公社(吉村清副市長)は二十八日の検討委員会で、市港川に至る北側約一㌔区間の工法を埋立が必要な方法ではなく、最大限環境に配慮した「橋梁」方式に一本化することを決めた。
(記事一部転載)

市の担当者は変更理由として、知事意見、地域からの要望、緩衡緑地としての緊急性が薄まったことを挙げている。さらに「浦添北道路」など他の道路とつなぐ観点から供用開始が遅れることを懸念している。

「緩衡緑地としての緊急性が薄まった」とあるが、「緊急性」はそもそも初めからあったのだろうか?
供用開始遅延を懸念しているのは本音だろう。北は読谷から南は糸満まで一本でつなぐこと、大規模な港湾計画が前提なのであるから。


さらに本日の沖縄タイムスは県議選告示を受け、政党座談会を特集している。「最も訴えている争点、政治課題は?」の問いに対して、自民党の外間盛善氏は、仲井真知事公約の観光客一千万人を目指すために、那覇空港滑走路整備、そして港湾整備を挙げている。港湾計画が仲井真自公政権の重要政策であることが分かる。  

Posted by 24wacky at 12:13Comments(2)TrackBack(0)NEWSを知りたい

2008年05月31日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その23

6 資本への対抗

資本への対抗のカギは、産業資本主義が、労働者が作ったものを自ら買うことによって成り立つということにある。

企業が社会的に害となることをやっても、労働者がそれを阻止することはできない。両者の利害が一致しているからだ。生産点においては、労働者は企業や国家の利益に傾く。一方、環境問題に対して、消費者・住民は敏感だし、世界市民的な観点に立てる。

労働者は資本に従属的であるほかない。しかし、労働者は流通過程において、消費者として現れる。その時資本に優越できる。消費者とは、プロレタリアが流通の場に現れる姿だ。

資本が働くことを強制できる権力はあるが、買うことを強制できる権力は無い。そのような非暴力的で合法的な闘争(ボイコット)に対して、資本は対抗できない。
  

2008年05月31日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その22

5 資本の限界

イギリスでは、毛織物産業の需要から羊を増産するため、領主が農民を追い出し耕地を牧草地に変えた。これが「囲い込み」だ。その結果生まれたのがプロレタリアだが、マルクスはそれを「二重の意味で自由な」人々と呼んだ。それは第一に、生産手段を持たない(free from) 、第二に共同体の拘束から自由であるという意味で。そしてこの2つは切り離せない。

たとえていうと、農民は共同体に住んでいれば互酬的なやり取りで何とか生きていける。その代わり、共同体ならでわの拘束に縛られる。都市の職人にしても、徒弟制的な共同体(ギルド)に属し、資本制的な賃労働を嫌う。これらに比べると、産業プロレタリアは、互酬的な共同体の原理から自由である。

といってもこのようなプロレタリアが急激に増えたかというとそうでもない。近年にいたるまで、世界の人口の大部分は農民か、都市の貧民であった。この人たちは商品交換の世界に晒されているが、互酬の原理で生きている。よくいえば平等主義的で相互扶助的、悪くいえば「怠惰」で他人の足を引っ張る。このような共同体の原理とは、経済的な停滞の原因であると同時に資本主義化に抵抗する基盤でもありえた。

産業資本における労働力と土地は、実は資本が自ら作り得ないものである。労働力商品といっても、需要がないからといって即廃棄するわけにはいかないし、不足したからといって増産することもできない(移民で補充しても後で不要になって追い出すわけにはいかない)。まさに労働力商品こそ、資本にとって内在的な危機をもたらす。

また資本の限界は、自然を商品化したことにもある。それによって致命的な環境破壊を招く。しかし、資本の自己増殖運動は止まらない。
  

2008年05月30日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その21

3 技術革新による存続

産業資本の剰余価値は、労働者を奴隷のように働かせることによって得られるものではない。もし労働者が皆奴隷のように働かされたとしたら、その生産物を買う消費者がいなくなり、総体として、資本の剰余価値が実現しないから。

マルクスが「相対的剰余価値」と呼んだものは、技術革新によって労働生産性を上げることによって得られる。労働者を直接搾取するものではない。技術革新は価値体系を時間的に差異化する、それによって剰余価値が得られる。その結果、産業資本は自らの存続のために、たえまなく技術革新を続けることを強いられる。




4 自己再生的システム

産業資本の剰余価値は、労働者が労働力を売り、その生産物を消費者として買い戻す過程にしかない。言葉を変えれば、剰余価値は個別資本においてではなく、社会的総体において考えねばならないということ。これを自己再生的システムと呼ぶ。

  

2008年05月30日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その20

2 生産=消費するプロレタリア

マルクスは、資本は流通から生まれることはできない、しかし流通を離れて生まれることもできないというアンチノミー(二律背反)をいった。これはM-C-M’という流通過程において、それを用いることが生産過程であるような商品、つまり労働力を見いだすことで解決される。産業資本は、生産設備を用意→原料を買う→労働者を雇用→生産した商品(C’)を売る。この労働力商品の部分が商人資本との違いであり、それは産業資本の自己増殖をもたらす。

では産業資本がイギリスという特定の歴史的環境で生まれたという事実はなにを意味するのか?生産手段を持たず労働力を持たないプロレタリアがいたからだといえるが、それはイギリスに限らない。大切なのは、プロレタリアが労働力を売って得た賃金で生産物を買う消費者だということ。

それは生産・流通されたものを比較するとよく分かる。商人資本では主に贅沢品が王や封建諸侯に売られた。産業資本での生産品は生活必需品であり、それを買うのは生産したプロレタリアだ。もちろん労働者が必ずしも自分が生産したものを買うわけではないが、総体としてみればそういえる。

農村近傍に新しく形成された都市=市場に、農村からプロレタリアが入っていったのだ。

さらにいえば、商人資本が外国(遠隔地)に向かったのに対し、産業資本は国内に遠隔地を見つけた。



本題から多少ずれる。商人資本=贅沢品、産業資本=生活必需品という区分けであるが、これに関して興味深いのが、区分としては商人資本であるはずのグスク時代における富の分配について、安里進が指摘する箇所である。
グスク・共同体・村


グスク時代は農業生産が発展し、新たな農業集落が生まれた。それに欠かせないのが、小型鎌、刀子、鉄斧などの鉄器である。消耗品である鉄器は絶えず補給する必要がある。琉球では鉄は産出しないので、海外交易に恃むしかない。鉄器・鉄材を海外交易によって入手し、配下の集落へ供給することが、地域首長としての寨官の重要な役割であった。

こうした海外交易を行うには、交換物資が必要だが、その原資は配下の集落から調達した生産物だと考えられる。しかし、これを交換して入手した輸入陶磁器や鉄器をはじめとする舶来の品々は、寨官の独占物ではなく、その大部分が末端の集落にまで分配されていた。とくに中国陶磁器は、当時の東アジア世界で高価な交易品であったにもかかわらず、大型グスクに限らず末端の集落からも大量の輸入陶磁器が出土し、日用雑貨ていどに使われていた。この輸入陶磁器とともに鉄器・鉄材をはじめガラス玉、勾玉、鏡、鉄鍋、その他調度品など各種舶来の品々が末端の集落に分配されていたのである。農民にとって寨官は、小さな集落に鉄をはじめ海外の産物をもたらして苦世を甘世にする、テダとして畏敬されるべき存在だったといえよう。

本来権力者が独占しているはずの贅沢品が、末端の農業集落に分配され日用雑貨ていどに使われていたというのはなにを意味するのか?安里は拙速に結論付けていないが興味深い問いである。

寨官というのは、14,15世紀の『明実録』『朝鮮王朝実録』などの資料に記された名称で、地方の大型グスクの上級城主を、地域首長一般の名称「按司」と区別するために安里が呼称した。寨官は城主であり、戦争の指導者であり、テダ(太陽)と農民から崇めたてられる存在であった。

安里は、寨官が単なる武力的権力者ではなく、住民から畏敬の念、賛美をもって見られていたことを『おもろそうし』を引用し強調している。しかしそのオモロを詠んだ者がどんな立場の人物で、どんな(政治的)意図を含めて詠んだのかには十分注意する必要があろう。この点はおもろ研究に無学な私には現状ではなんともいえない。

また安里は、グスク時代の農業社会が牧歌的な平和な社会ではなかったことを、沖縄各地のグスク時代の集落から出土される止め金具、鞐(こはぜ)、小札といった鎧の一部、鉄製・骨製の矢じりから推測する。

これらのことから分かるグスク時代の交換様式B(略取―再分配)は次のようになる。農民は寨官に農業生産物を貢納→寨官は農民に貿易で入手した鉄器などを分配→農業共同体の生産向上・農業共同体の軍事化→寨官を首長とした共同体の安定。

グスク時代の共同体が外部(他の国家)と交易(交換)をいかにしたか、その構造を明らかにするのが次の課題。

  

2008年05月30日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その19

2章 産業資本主義
 

1 マニュファクチュアの時代へ

「世界市場」以前と以後で商人資本は変容する。以前では、遠隔地との交易においてその間の価値体系の差異で剰余価値を得ていた。Aという地域で安く買ったものをBという地域で安く売る、というように。しかし以後では、多数の商人資本が参入したり、各地での価値体系が変動するようになったため、差異が剰余を生まなくなる。ではどうしたかというと、自ら生産を組織し、より安くより多く商品を生産することで、国際競争を生き抜くという手法をとった。そこから出てきたのが、マニュファクチュア、つまり手仕事ではあるが、分業と協業によって生産力を飛躍的にアップさせる方法だ。

一方、世界市場の中で、ヨーロッパ東部では「再販農奴制」が、アメリカ南部では奴隷制が、ラテン・アメリカでは農奴制が出現した。これは時代に反するように見えるがどういうことか?「それは、商人資本主義が、基本的に諸国家間の間の価値体系の差異に利潤を見いだすものであり、それぞれがどのような生産様式をとるかに無関心だから」。



世界市場以後の産業資本主義の特徴として、機械によるオートメション化よりも、分業と協業を挙げている点に注意したい。



  

2008年05月29日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その18

5 国家の自立性

マルクス主義者は、国家を経済的な階級が支配するための手段とし、階級対立が無くなれば国家は解消されると考えた。なので資本主義を廃棄するために一時的に国家権力を奪取することは許されると。つまり革命だ。

しかし、革命はただちに外部からの軍事的干渉を招くため、防衛のために旧来の軍・官僚機構に依存するしかなくなる。国家をその内部から見ているだけでは、逆に国家を強化することにしかならない。



日米政府の植民地政策に抵抗し沖縄が独立国家となれば、ただちに外部(他の国家)からの軍事的干渉を招く。その防衛のため、沖縄は軍事力を備え、緊張を高める。その時になって初めて自分たちが国家の中にいることを発見するだろう。

それが沖縄の人々の望むゴールであれば、ヤマトーンチュである私は反対できない、彼ら / 彼女らにそのような認識があればの話しだが。そうでなければ沖縄自治研究会が紹介する「高度な自治」も選択肢としてある。しかし本書で書かれていることはそのどちらでもない。

本日5月29日付沖縄タイムス文化欄、平敷武蕉氏のレギュラー枠「文芸時評」では、同紙の往復書簡「沖縄をめぐる対話」、雑誌『状況』5月号特集「来るべき自己決定権のためにー沖縄・憲法・アジア」、そしてそれを受けて18日に開催されたシンポジウム「マーカラワジーガ」一連に対し、「『知のざわめき』とでも呼ぶべき刺激的状況が現出された」と評価している。

一方で次のような批判を忘れない。

ただ、傾聴すべき問題提起もあったとはいえ、これら一連の企画で見た言説に共通しているのは、軍隊、警察などを含む現国家体制を、だれがどうするかといった、実践主体の成熟・組織化への不問と革命実践論の欠如である。国際情勢に規定された今日の国家体制の政治経済的分析と国家権力の支配構造のからくりおよび既成イデオロギーとの対決を抜きに、あたかも気概をもってのぞめば、沖縄の民衆の意志で沖縄の将来が「自己決定」できるチャンスが到来したかのような言説がまかり通っている。オメデタイ「知の遊戯」に堕することがないように願いたい。


これら一連の企てがオメデタイとは思わないが(『状況』は未読)、この批判は私の問題意識と重なる。「マーカラワジーガ」については後ほど書くつもりでいるが、これに限らず、最近私はシンポジウムという制度自体に、コミュニケーションの場としての限界を見ている。このことについてはまた機会があればじっくり触れたい。
  

2008年05月29日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その17

4 官僚支配と福祉国家

国家が他国との戦争の準備をしていることを、ふだん国民は気づかない。それを準備するのが常備軍と官僚機構だ。この体制ができたのが西ヨーロッパでは絶対主義国家においてである。

絶対主義王権は市民革命によって廃棄されたが、軍と官僚機構は逆に増大した。でもそれは残念ながら国民のためではない。「国民主権の下であろうと、国家はそれ自身のために存続しようとする」のだ。

しかしそういうことは国家の内部だけみていると気づかない。絶対主義国家においては、国家=警察=暴力という観念がはっきりと見えた。それに対し市民革命以後の国家秩序は、もはや剥き出しの暴力によって維持される必要はなく、むしろ国民による自発的な同意と服従によって維持されるようになる。

国家の自立性を示す軍・官僚機構を社会契約論的にいえば、官僚というのは議会を通して国民の意志を実行する「公僕」である。だが実情はそうではない。

これについてヘーゲルが『法権利の哲学』で述べていることをいいかえると、「議会は、人々の意見によって国家の政策を決めていく場ではなく、官吏たちによる判断を人々に知らせ、まるで彼ら自身が決めたことであるかのように思わせることにある」。議会制民主主義とは、官僚たちが立案したことを、国民が自分で決めたかのように思いこむようにする手続きである!

20世紀に入ってのケインズ主義的な経済介入、社会福祉、労働政策、教育政策が注目されるが、そもそも国家が経済に介入しなかった時期などないというべきだ。



「国家が他国との戦争の準備をしていることを」否が応でも気づかされるのが、沖縄の米軍基地周辺地域で生活している人の皮膚感覚だろう。最近では自衛隊との日米共同使用が実現され、その危険地域はさらに増えるだろう。軍が国民のためではないというのも、「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を待つまでも無く、沖縄では常識である。むろん、それは過去の事柄ではなく、現在にも当て嵌まる。

その意味で、沖縄は国家の剥き出しの暴力を見ることできる希少な場所である、と逆にいうこともできる。あるいは、沖縄は国家の外部に立てる(立たざるを得ない)場所である。内部だけでなく外部(他の国家)との関係が見える場所である。

反基地運動の現場にいれば、直接対峙する沖縄防衛局職員の動向と、その官僚トップの逮捕が直接繋がっていることは明瞭だ。彼らを問い詰めると「自分は上からの指示通りに動いているだけだ」と答える。その上を問い詰めれば、また同じ答えをするだろう。さらにその上を、さらにその上をと辿っていくと指示を出しているトップに行きつくだろう。だが彼が逮捕されたからといって、その代わりが同じポジションにつくだけだ。なぜなら彼らは国家の自立した意志を代行しているに過ぎないから。

  

2008年05月29日

『世界共和国へ』を読むためのメモ その16

2 絶対主義国家の誕生

西ヨーロッパの集権的国家は、絶対主義王権国家によって始まる。それは王が多数の封建諸侯を制圧し、教会の支配権を奪うことにより成立する。それを可能にしたのには次の2つの理由がある。一つは破壊力を持った火器の発明。もう一つは、商品経済の浸透。

絶対主義国家は、資本制経済への過程としてよりも、集権的国家形成に向かう過程と見たほうがよい。注目すべきは、そこで膨大な官僚組織と常備軍が形成されたこと。





3 国家と暴力

絶対主義王権では、国家が略取―再分配という交換様式を独占していたことは誰の目にも明らかだった。ところが市民革命以降それが見えなくなる。なぜなら、国家の主権者は国民であると考えられるようになったから。国家は国民に選ばれた政府と同じようにみなされる。絶対王政では王が税を徴収し再配分していたのに対し、国民が義務として自発的に納税し再配分されるように考えられる。

社会契約論によれば、国家の意志とは国民の意志であり、選挙を通して政府によってそれが実行されると考えられる。だが国家は政府と別物であり、国民の意志から独立した意志をもっていると考えるべきだ。

次の例えが分かり易い。大企業では、経営者は社員から選ばれる。経営は社員総意によってなされるかのようにみえるが、経営は究極的に資本(株主)に拘束される。「社員の総意がどうであれ、経営者は資本の要求――利潤の実現――を満たさなければならない」。
絶対主義王権国家において明白だった国家だが、市民革命以降隠れてしまう。同じように資本も通常は見えない。しかし、株主が経営者を解任したり企業買収したりすると、「資本」があると実感する。同様に、国家の存在を実感するのは戦争においてだ。

国家――政府――国民
資本――経営者――社員


「国家は政府と別物であり、国民の意志から独立した意志をもっていると考えるべき」というのは、国家はその内部から見るのではなく、外部(他の国家)との関係において見るべきということと相対する。国家というのは抽象的な存在だが、独立した意志をもっているという。

そんなことをいわれて、沖縄の反基地運動はどうすればよいのか?抵抗の相手は日米政府という明白な相手。それに対してこれまで闘ってきた。だが、その向こうに国家がある?

さらにまずいことに相手は国家だけではない。資本制経済というもう一つの相手が。そしてその両者が結託しているとしたら・・・
ナンギな話しが後に控えるが、このカラクリをみなければそれへの対抗運動もまた不可能だ。ということでさらに続く。